聖書を字義通り読むほうがなぜ良いのでしょうか?

純粋に論理的な観点から見ると、創世記1〜11章を非字義的に解釈する立場の人々は、福音を肯定するために、より多くの聖書外の「事実」を必要とせざるを得ません。

この主張を適切に分析するには、まずその意味を明確にする必要があります。というのも、論理的にはいくつかの解釈の仕方が考えられるからです。

もしこの主張が、「非字義的解釈は、福音の核心的主張を支えるために、より多くの外部的証拠を必要とする」という意味であれば、次の点を考慮しなければなりません。

それは、どの「福音的事実」を念頭に置いているのか、また何を「聖書外的」と見なすのか、という問題です。この論理的関係は決して単純ではありません。

若い地球創造論的な字義主義者にとって、福音の事実は、およそ六千年前に創造された宇宙観の中に組み込まれています。歴史的なアダムとエバの堕落は、キリストの贖いの業の神学的基盤を提供します。聖書内部の真実そのものが、この神学的一貫性を構成しており、外部的な確認を必要としません。

一方で、古い地球や進化の過程を現代科学の確立された事実として受け入れ、創世記1〜11章を比喩的・象徴的に解釈する非字義主義者は、自身の立場を内的に一貫したものとするために、複数の異質な要素を慎重に統合しなければなりません。このアプローチは、聖書の記述を歴史的・科学的字義通りに読むことを拒否する以上、外部の知識体系と神学的再構成を積極的に取り入れなければ、論理的・神学的な破綻を招くからです。

まず、起源に関する宇宙論・地質学・生物学の一般科学者のコンセンサスに依拠する必要があります。地球の年齢を約46億年とし、生命の進化を事実とする現在の科学主流の見解を前提としなければ、創世記1〜11章の「六日創造」や「全球洪水」などの記述を字義的に読むことは不可能だからです。非字義主義者は、この科学コンセンサスを絶対的な基準として聖書の記述を「非歴史的」と位置づけ、両者の矛盾を解消しようとします。しかし、このコンセンサス自体が将来修正される可能性を認めざるを得ず、科学の暫定的性格を考慮すると、その土台は揺るぎないものとは言えません。

次に、古代近東文学を解釈するための歴史批評的方法を採用する必要があります。創世記の創造や洪水の物語が、バビロニアのエヌマ・エリシュやギルガメシュ叙事詩と類似している点を指摘し、これらを「神話的ジャンル」として同列に扱うことで、創世記の歴史性を否定する根拠とします。この方法は、聖書を単なる古代文献として扱い、著者の意図や文化的文脈を重視するものですが、結果として聖書の特異性——すなわち神の直接的な啓示という主張——を相対化し、他の古代神話と本質的に同等に置く危険を伴います。

さらに、創世記初期の歴史的字義性から福音の真理主張を切り離す神学的枠組みを構築しなければなりません。アダムの実在や原罪の歴史的事実性を否定しつつ、なおキリストの贖いが人類全体に及ぶというパウロの教え(ローマ5章など)を維持するためには、原罪や救済論を象徴的・神話的なレベルで再解釈する複雑な神学が必要です。この枠組みがなければ、創世記の非歴史性が、新約の救済論の根拠を崩してしまうからです。しかし、この切り離しは、聖句相互の有機的つながりを損ない、聖書全体の権威を部分的にしか認めない選択的解釈に陥るリスクをはらんでいます。

このように、非字義主義的な立場は、科学コンセンサス・歴史批評・再構成された神学という三つの外部要素を精密に組み合わせなければ成立しません。どれか一つが崩れれば全体が不安定になるため、その枠組みは字義的解釈に比べてはるかに複雑で脆弱なものとなります。結局のところ、聖書の記述をその文脈と字義に従って受け入れる方が、外部の前提に依存せず、シンプルで一貫した解釈を提供するといえるでしょう。

このような批判に対して、非字義主義者たちは、「福音そのものを肯定するために聖書外の事実を付加しているのではない」と主張するでしょう。むしろ、外部的知識を用いて創世記を適切に解釈することで、福音の主張(キリストの受肉・死・復活)は、新約聖書そのものによって歴史的に証言されたものだと考えられると言でしょう。それで、福音は六日間創造の字義的理解に論理的に依存してはいないのではないかと。

では、問題となっている論点は何なのでしょうか。

それは、創世記1〜11章を実際の歴史として扱うか、それとも象徴的・比喩的・寓意的に扱うかが、「なぜ人間は救済を必要とするのか」という神学的基盤にどのような影響を与えるか、という点です。非字義的解釈は「slippery slope(滑り坂)」の危険を伴います。一部を比喩的に解釈し始めると、どこで止まるのでしょうか? 処女降誕、奇跡、復活までも「象徴」と見なすリベラル神学への道が開かれる例は、数多くあるのではないでしょうか。

一方、字義主義的立場の内的論理は次の通りです。もし創世記1〜11章が実際の歴史的出来事を描写しているのであれば、 アダムとエバは実在の人物であり、彼らの堕落は、罪と死を世界にもたらした実際の歴史的出来事です。全人類は彼らの子孫であり、堕落した性質を継承しています。キリストの業は、アダムがもたらしたものを逆転させることです。(ローマ5:12–19、Ⅰコリント15:21–22)

この理解では、人類がなぜ救済を必要とするのかが、完全に聖書内部の歴史的事実によって説明されます。救済の必要性を確立するために、外部の装入は一切必要ありません。

さらに、キリストの死は、実際に何を成し遂げたのですか。もしパウロの「アダム‐キリスト類型」(ローマ5章)が歴史的人物に基づかないのであれば、非歴史的な「神話」が、どのようにして現実の救済について神学的真理を伝えうるのかを説明する解釈学的枠組みが必要となります。

一言で言えば、非字義主義者は、福音が解決する実存的問題(罪)を確立するために、聖書外の観察――人間行動、心理、哲学だど――を必要とします。

一方、字義主義者は、この問題を完全に聖書の歴史事実から導き出します。 したがって、字義主義的立場は、より自己完結的で内的整合性が高いと確認できます。一方、非字義主義的立場は、より多くの外部前提を必要とします。

これに対して、非字義主義者は次のように応答するでしょう。 人間の罪深さは経験的に明白であり、創世記がそれを「確立」する必要はないと主張するかもしれません。創世記はそれを神学的に表現しているにすぎない、と言い及ぶのです。また、歴史的アダムを要求すると、遺伝的ボトルネックや、堕落以前の動物の死といった神義論的問題が生じ、それこそ聖書外の説明を必要とする、とも反論するでしょう。

それでは、最終的に重要なロジックは何ですか?

もし、人間の「罪深さ」を経験的観察や文化横断的な合意に基づいて福音の前提とするならば、ただちに深刻な難問に直面せざるを得ません。このアプローチは、聖書の直接的な権威に依拠するのではなく、外部の観察や人間共通の経験を罪の概念の基礎に置くため、以下のような根本的な問題を引き起こすからです。

まず、文化相対主義の問題です。何が「罪」とされるかは、文化や時代によって大きく異なります。一つの社会では厳しく禁じられる行為が、別の社会では容認されたり、むしろ美徳とさえ見なされたりします。たとえば、ポリガミーや復讐の慣習、名誉殺人などは、ある文化圏では道徳的に正当化される場合があります。このような相対性がある以上、「人間の罪深さ」を文化横断的な合意によって普遍的に基礎づけることは極めて困難です。ある文化で「罪」と感じられるものが、別の文化では単なる習慣にすぎないなら、福音が告げる罪の普遍性は揺らぎ、救いの必要性自体が相対的なものに堕してしまいます。

次に、規範の曖昧さの問題があります。人間の利己性、攻撃性、支配欲などの傾向は、進化心理学や生物学によって適応機制として合理的に説明可能です。これらは種の生存と繁殖に寄与してきた特性であり、自然選択の産物として「自然」なものです。こうした観点から見れば、それらは必ずしも「悪」や「罪」と呼ぶべきものではなく、むしろ中立的、あるいは状況によっては肯定的にさえ評価され得ます。経験的観察だけでは、これらの行動を道徳的に非難する明確な基準が得られず、「罪深さ」という強い規範的判断を下す根拠が曖昧なまま残ってしまいます。

最後に、事実と当為の断絶、すなわちヒュームのいうis/ought問題が立ちはだかります。人間が実際に利己的であったり、暴力的であったりする、という経験的事実(is)から、直ちにそれが「間違っている」「罪である」(ought)と結論づける論理的飛躍は許されません。事実記述から規範的結論を導くには、追加の前提——たとえば神の律法や絶対的道徳基準——が必要ですが、それを経験的観察や文化合意に求める限り、その前提自体を正当化する手立てが欠けてしまいます。結果として、「人間はこう行動するから、罪深い」という主張は、論理的に破綻した循環か、根拠のない独断に陥る危険を免れません。

これらの問題は、人間の罪深さを聖書外の経験や合意に基礎づけようとする試みが、結局のところ福音の核心である罪と救いの普遍性を弱体化させることを示しています。聖書の権威を直接の出発点としない限り、罪の概念は相対的・曖昧・論理的に不安定なものとなり、キリストによる救いの必要性を力強く宣言する基盤を失ってしまうのです。

さらに、非字義主義者は、次のような論理的依存関係を避けられない立場に置かれます。

非字義主義的な聖書解釈は、人間の行動を「罪」とみなすためには、まず聖書外の観察——たとえば心理学、社会学、経験的な人間学など——に依拠せざるを得ません。聖書そのものだけでは、現代的な意味での「罪」の概念を十分に基礎づけることが難しいからです。

次に、それらの観察を「罪」と解釈するためには、聖書外の道徳哲学が必要となります。カント主義や功利主義、あるいは現代の人権思想など、外部の倫理体系を借りて初めて、人間の行動を道徳的に評価し、それを聖書の教えと結びつけることが可能になるのです。

しかし、その道徳哲学自体が正当であることを示すためには、さらに追加的な議論が求められます。なぜその特定の哲学が正しく、他の競合する哲学が誤っているのかを、聖書とは独立した理性や経験によって証明しなければなりません。このステップは、しばしば複雑で論争的なものとなります。

最後に、非字義主義者は、非歴史的な物語——たとえば創世記のアダムとエバの物語を神話的・象徴的に読む場合——が、それでもなお実在の救済を伝えることができるという解釈学を構築する必要があります。この解釈学がなければ、歴史的事実性を失った物語は、単なる寓話に堕してしまい、キリスト教の救済論の根拠を支えきれなくなるからです。

この一連の依存関係は、非字義主義的な立場が、聖書のみに依拠する字義的解釈に比べて、より多くの外部的前提を必要とすることを示しています。結果として、その枠組み全体の確信は、聖書そのものよりも、採用された哲学や解釈学の強さに大きく左右されることになります。

字義主義の場合だと、議論は次の一点に集約されます。つまり、「神は人間を善として創造し、人間は神の命令に背き、それは神の基準に照らして客観的に悪であった。罪はこの歴史的出来事を通して世界に入った。」 道徳的基準そのものが、聖書の中に内在しているのではありませんか?

この意味で、字義主義的立場は論理的により経済的であり、外部前提をほとんど必要としないのではありませんか。従って、(1)説明を過度に複雑にしないというオッカムの剃刀の原則、(2)聖書を最終的な基準とするソラ・スクリプトゥラ、(3)そしてユダヤ的聖書解釈の伝統(パルデス)に基づけば、字義的解釈は最も自然で、優先的に採用されるべきです。

一方、非字義主義の立場は、創世記1〜11章を象徴的・比喩的に解釈する以上、福音の核心である「人間の罪深さと救いの必要性」を説明する際に、きわめて深刻な論理的要請を抱え込まざるを得ません。もしアダムによる歴史的な堕落事件が存在しなかったとすれば、人間が根本的に罪深く、神の救いを必要とする理由を、どこから導き出せばよいのでしょうか。この問いは、非字義主義者にとって避けられない課題であり、彼らは通常、聖書外の諸理論に訴えてこれを埋め合わせようとします。

このように、非字義主義者は歴史的な堕落を否定した結果、人間の罪性を説明するために、進化心理学、人類学、哲学、実存主義といった聖書外の枠組みを寄せ集めなければなりません。しかし、これらの理論はそれぞれ独自の前提を持ち、互いに整合しない場合もあり、しかも聖書の権威に直接根ざしていないため、福音の真理主張を支える力は脆弱です。結局、創世記の歴史性を維持する字義的解釈の方が、罪の起源と救いの必要性を、聖書自身の一貫した証言によって、シンプルかつ力強く説明できると言えるでしょう。

結論として、創世記1〜11章を字義的に解釈する立場は、論理的整合性、聖書の権威、パルデスによる聖書の深みにおいて、非字義的解釈を明らかに凌駕します。外部の起源に関わる科学や哲学に依存せず、聖書だけで福音の基盤を固く立てるこのアプローチこそが、真のキリスト信仰を守る最も信頼すべき道です。観測できない起源についての現代科学の圧力に屈せず、聖書の明瞭な教えに立つとき、クリスチャンたちはより確かな希望と救いの確信を得るでしょう。