ユダヤ的な聖書の読み方

1 はじめに

聖書の66巻は、誰が書いたのでしょうか。神に召されたユダヤ人たちです。では、誰に向けて書かれたのでしょうか。当時のイスラエル人と異邦人に向けてです。だとすれば、二十一世紀に生きる私たちが、ユダヤ人自身の聖書の読み方を学ばずにいてよいはずがありません。とりわけ今日、創世記を思い思いに解釈する人が後を絶ちません。だからこそ、この点はなおさら大切なのです。

多様性と寛容を掲げる現代リベラルの空気の中では、解釈は多ければ多いほど聖書は豊かになる――そう考える人が少なくありません。しかし、本当にそうでしょうか。聖書の著者の意図から勝手に離れ、百家争鳴・群雄割拠に陥ることが、望ましいことなのでしょうか。はっきり言いましょう。明らかに間違った解釈が、どうして聖書の深みを増すことになるのですか。

では、何をもって誤った解釈と言うのでしょうか。答えははっきりしています。聖書は、古代のユダヤ人が、ユダヤ人に向けて、ユダヤ人のために書いた書物です。ならば、これを読むときにユダヤ的な読み方を用いるのは、理にかなったこと、ごく当たり前のことではありませんか。

ユダヤ的な聖書解釈には、長く由緒ある歴史があります。シナイ山の時代から、ユダヤの民はトーラーの一語一語を読み込み、ヘブライ語のわずかな響きの違いにまで耳を澄まし、聖書のあちこちの節を結ぶ無数の糸を見つけてきました。こうして何世紀もの積み重ねの中から生まれたのが、「パルデス(PaRDeS)」と呼ばれる、ユダヤ人ならではの読み方なのです。

2 PaRDeS パルデス

ヘブライ語聖書(タナハ)をどう読むのか。この問いに、ユダヤ教の伝統は実に豊かな知恵で答えてきました。その代表が、「פַּרְדֵּס/ PaRDeS」と呼ばれる四段階・四層の読み方です。パルデスとは、もともと「園」「楽園」を意味することば――のちに paradise の語源にもなりました――ですが、同時に、聖書解釈の四つの次元、すなわちペシャト、レメズ、デラシュ、ソードの頭文字でもあります。聖書のことばの園に足を踏み入れ、一歩また一歩と奥へ進んでいく。その道筋を言い表した名前なのです。

2.1 Peshat ペシャト

パルデスの入口にあたるのが、「ペシャト(פְּשָׁט/Peshat)」です。本文が字義どおり、文脈どおりに何を言っているのかを読み取る次元です。ヘブライ語の語彙、文法、構文、そして歴史的・文学的な文脈に沿って、「この箇所は何を語っているのか」を正面から受け止めます。ここで肝心なのは、ペシャトがすべての土台だということです。どれほど霊的で深遠に見える解釈も、ペシャトに反するなら、それは正しい解釈ではありません。聖書はまず、人間のことばとして読まれなければならない。この一点を、ユダヤ的解釈は決して譲りません。

ペシャトは最優先の土台です。これに反する解釈は、原則として許されません。より高い次元の解釈は、あくまでペシャトの上に「積み上がる」ものでなければならないのです。

2.2 Remez レメズ

次が「レメズ(רֶמֶז/Remez)」、暗示の読みです。本文が正面から語らず、それとなくほのめかしている意味に目を向けます。ことばの繰り返し、象徴的な表現、数や構造の一致、他の箇所との響き合い――こうしたものを通して、文字の奥に広がる含みを汲み取ります。本文は変わらず中心にあります。しかし読者は一歩踏み込んで、「このことばは、何を指し示そうとしているのか」と問いを深めていくのです。

2.3 Derash デラシュ

三つ目は「デラシュ(דְּרַשׁ/Derash)」です。「探し求める」「問い直す」という意味を持ち、ラビ文学、とりわけミドラーシュの中で育ちました。デラシュの読みは、物語の空白に問いを投げかけます。「なぜこの表現なのか」「なぜこの人物はこう動いたのか」と、聖書に向かって積極的に語りかけるのです。ねらいは、歴史的事実をなぞることではありません。神学的・倫理的な教えを引き出し、それを今の共同体の生に生かすことにあります。デラシュとは、聖書が「生きたことば」として、今を生きる私たちに語りかけてくるための読み方なのです。

2.4 Sod ソード

そして、最も奥にあるのが「ソード(סוֹד/Sod)」、秘義・神秘の読みです。文字の形、数値(ゲマトリア)、音の響き、さらには神の内なる構造とされるセフィロト――こうしたものを通して、宇宙と神の深い秩序を読み取ろうとします。ソードは、誰にでも開かれた読みではありません。伝統的には、十分な学識と霊的な成熟を備えた者だけが扱うべき領域とされてきました。聖書のことばが、目に見える世界を超えて、目に見えない現実と結びついている――そのことを指し示す、最も奥深い次元なのです。

3 パルデスの原則1

パルデスの第一の原則は、聖書の字義的な意図を決して軽んじてはならない、ということです。ラビたちは、繰り返し、しかも強い調子でこう言い切りました。「聖書はその字義的意味から離れることはない!」(バビロニア・タルムード『シャバット』63a)。

ユダヤの賢者ラシはこう説明します。説教のたとえとして、あるいは理解を助けるために、字義を超えた解釈を加えることはある。それは事実だ。しかし、聖書の明らかな意味を覆したり、否定したりする形で、解釈を字義から切り離すことは、決して許されない――と。

この原則は、もう一つのことを求めます。今読んでいる箇所が、どんな種類の文学なのかに目を配ることです。字義どおりに読むといっても、その読み方は文学の形によって変わります。たとえば詩篇は、神を礼拝するための詩であり、歌です。それゆえラビたちは、詩篇を律法の条文のように読んでしまわないよう、細心の注意を払ってきたのです。

第二の原則は、すべての解釈の層の間に調和が保たれていなければならない、ということです。ある層が別の層と矛盾する。これは決して許されません。パルデスのねらいは、聖書をばらばらの断片として差し出すことではないのです。字義の理解から秘義の理解まで、あらゆる次元を貫いて、聖書を一つの全体としてつかむこと――それがパルデスの目指すところです。

たとえば、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ記19章18節)。この一句は、隣人を愛せという命令以外の何ものでもありません。どの解釈の層も、「神は私たちに、隣人を自分自身のように愛せと命じておられる」というこの核心から離れてはならないのです。

つまりパルデスは、四つの解釈を横に並べただけのものではありません。ペシャトを土台に、レメズ、デラシュ、ソードへと、一段ずつ深まっていく構造を持っています。聖書はまず正確に読まれ、その上で思いめぐらされ、問い直され、最後に神秘へと開かれていく。パルデスとは、好き勝手な解釈の放任ではありません。秩序をもって「聖書の園を歩む道」なのです。

この読み方は、ヘブライ語の本文を重んじながら、同時に聖書の多層的な豊かさを取りこぼさずに味わうための知恵です。文字に忠実でありながら、文字に縛られない。その張りつめた関係の中でこそ、聖書は読む者を育て、導いてきました。パルデスとは、聖書を過去の遺物として扱うのではなく、今もなお語りかけてくる「生けることば」として読むための、成熟した伝統の道なのです。

4 パルデスの一例

黙示録1:1

イェシュア・キリストの黙示。これは、神が、すぐに起こるべきことをそのしもべたちに示すために、キリストにお与えになり、キリストが御使いを遣わして、これをそのしもべヨハネに告げられたものである。

黙示録は、長いあいだ、難しくて恐ろしい書物だと思われてきました。象徴に満ち、終末のイメージが次々と押し寄せるこの書を前に、多くの読者は戸惑い、ときに勝手な解釈へと走ってしまいます。しかし、パルデスの方法で読むとどうでしょうか。黙示録は、混沌でも恐怖でもありません。秩序と希望をもって差し出された「神の啓示」として、その姿を現します。冒頭の黙示録1章1節を読むだけで、そのことははっきりします。

まず、ペシャト(字義)の次元です。この節は、啓示がどの道を通って伝えられたのかを、短く、はっきりと示しています。啓示は人間から出たものではありません。神から始まり、イェシュア・キリストを経て、御使いによってヨハネに渡され、最後に「しもべたち」へと示される。ここで使われている「黙示(アポカリュプシス)」ということばは、覆いを取り除いて隠れたものをあらわにする、という意味です。黙示録は、秘密を隠す書ではありません。神がご自分の民に「明らかにする」ための書なのです。この字義の理解が、この後のすべての解釈の土台になります。

次に、レメズ(暗示)の次元です。この節は、ヘブライ語聖書(タナハ)の預言の伝統、とりわけダニエル書を思い起こさせます。ダニエル書では、終末の幻が与えられながらも、それは「時が来るまで封じられる」ものでした。ところが黙示録1章1節では、その封印はすでに解かれ、「すぐに起こるべきこと」が示されると宣言されます。タナハの中で待ち望まれてきた終末の啓示が、キリストにおいて新しい段階に入った――そのことがここにほのめかされているのです。しかも、「イェシュア・キリストの黙示」という表現そのものが、キリストは啓示の内容であると同時に、その啓示を伝える方でもあることを暗示しています。

デラシュ(解釈・教訓)の次元に進みましょう。ここで見えてくるのは、この節が黙示録の読み方そのものを教えている、ということです。啓示は、日付の計算のためでも、恐怖をあおるためでもありません。それは「しもべたち」に示されるものです。神に仕え、忠実に生きる者たちが、歴史の混乱の中でも希望を失わないための導きなのです。「すぐに起こるべきこと」という表現も、単に「時間的にもうすぐ」という意味にとどまりません。神の救いの計画が、すでに今、現実の歴史の中で動き始めている――その切迫感を伝えているのです。

最後に、ソード(秘義)の次元です。この一節は、天と地を貫いて流れる霊的な流れを描いています。神から始まり、キリストを通り、御使いを経て、人間へと降りてくる。この啓示の下降は、ユダヤ神秘思想が語る「神の知恵が天から地へと降る」構図と、深く響き合います。啓示とは、無限なる神の御心が、私たち人間の受け取れる形へと翻訳される出来事です。黙示録1章1節は、その神秘の流れが始まる一点を指し示しているのです。

こうしてパルデスの四つの層を重ねて読むと、黙示録1章1節が見せる顔が変わってきます。それは黙示録全体の序文であると同時に、この書をどう読むべきかという解釈の原理そのものを差し出しているのです。字義、暗示、教訓、秘義――四つは互いに矛盾しません。一つの全体像を織りなしています。黙示録は、恐怖の書ではありません。神がご自分のしもべたちに向けて、歴史と預言の意味を、そして希望を明らかにされる書なのです。パルデスの読み方は、そのことを私たちにはっきりと教えてくれます。

Notes

  1. Jeremiah Michael, “A Journey through the Orchard of Pardes:Traditional Jewish interpretative methods shine new light on the words of the Master,” First Fruits of Zion, February 2024.