聖書の66巻は、当時のイスラエル人および異邦人に向けて、神によって召されたユダヤ人たちを通して書き記されたものです。 したがって、21世紀に生きる私たちにとって、ユダヤ人の聖書研究の方法に精通しておくことは不可欠です 現代において創世記を多様な方法で解釈する者が増えていることを踏まえると、この点は特に重要です。
多様性や寛容を重んじる現代リベラルのイデオロギーのもとでは、さまざまな解釈が聖書の真理をより豊かにするため、むしろ多様な解釈があったほうがよいと考える人も多いでしょう。しかし、聖書作者の執筆意図や内容から恣意的に逸脱し、百家争鳴・群雄割拠の状況に陥ることは、果たして望ましいのでしょうか。端的に言えば、明らかに誤った解釈が、果たして聖書の深みをより豊かにすると言えるのでしょうか。
では、何を誤った解釈と考えるべきでしょうか。聖書の諸書は、古代のユダヤ人によって、ユダヤ人に向けて、ユダヤ人のために書かれたものですから、聖書を読む・学ぶ際にユダヤ的な読み方を取り入れるのは、理にかなっており、ごく自然なことだと言えるでしょう。
ユダヤ的な聖書解釈には、長く由緒ある歴史があります。シナイ山以来、ユダヤ民族はトーラーの本文を丹念に読み込み、ヘブライ語の微妙なニュアンスを吟味し、聖書の諸節の間に無数の関連性を見いだしてきました。こうした何世紀にもわたる集中的な聖書研究の積み重ねの中から、「パルデス(PaRDeS)」と呼ばれる、ユダヤ教特有の解釈方法が生み出されたのです。
ヘブライ語聖書(タナハ)をどのように読むのか、という問いに対して、ユダヤ教の伝統はきわめて豊かな知恵を蓄積してきました。その代表的な枠組みが、 「 פַּרְדֵּס / PaRDeS)」と呼ばれる四段階・四層の解釈方法を指します。パルデスとは本来「園」「楽園」を意味する語ですが (後に paradise の語源にもなりました)、同時に、聖書解釈の四つの次元――ペシャト、レメズ、デラシュ、ソード――の頭文字を取った名称でもあります。聖書の言葉の中へと歩み入り、段階的に深みへと進んでいく道筋を示す比喩的な名称だと言えるでしょう。
まず、パルデスの入口にあたるのが 「ペシャト( פְּשָׁט /Peshat)」です。これは本文が語っている字義的・文脈的意味を丁寧に読み取る次元です。ヘブライ語の語彙、文法、構文、そして歴史的・文学的文脈に即して、「このテキストは何を言っているのか」を正面から受け取ります。ユダヤ的解釈において重要なのは、このペシャトがすべての土台であるという点です。どれほど霊的で深遠に見える解釈であっても、ペシャトに反するものであれば正当とは認められません。聖書はまず、人間の言語として理解されるべきだ、という厳格な姿勢がここにあります。
ユダヤ的解釈では 、ペシャトが最優先される基礎層あり、それに反する解釈は原則として許されません。 より高層の解釈は、ペシャトの上に「積み重なる」ものでなければなりません。
次に現れるのが 「レメズ( רֶמֶז /Remez)」、すなわち暗示の読みです。レメズでは、本文が直接には語っていないものの、ほのめかしている意味に目を向けます。言葉の反復、象徴的な表現、数や構造の一致、聖書内他箇所との響き合いなどを通して、テキストの背後に広がる含意を感じ取ります。ここでは、本文は依然として中心にありますが、読者は一歩踏み込み、「この言葉は何を示そうとしているのだろうか」と思索を深めていきます。
パルデスの第一の基本原則は、聖書の字義的意図を決して軽視してはならない、という点にあります。ラビたちは繰り返し、しかも強い調子で次のように述べています。「聖書はその字義的意味から離れることはない!」(バビロニア・タルムード『シャバット』63a)。
ユダヤ人の賢者ラシは、説教的な比喩として用いたり、聖書の理解を助けたりする目的で、字義を超えた解釈を施すことがあるのは事実だと認めつつも、聖書の明確な意味を覆したり否定したりするような形で、解釈を字義的意味から切り離しては決してならない、と説明しています。
この原則はまた、私たちが読んでいる聖書文学のジャンルに対する配慮をも要求します。どのように字義的に理解すべきかは、その文学形式によって左右されるからです。たとえば詩編は、神への礼拝としての詩であり歌です。そのためラビたちは、詩編を律法的な法令として読むことがないよう、細心の注意を払ってきました。
第二の基本原則は、すべての解釈レベルのあいだに調和が保たれていなければならない、という点です。ある解釈の層が、別の解釈の層と矛盾することは決して許されません。パルデスの目的は、聖書を断片化されたものとして読者に提示することではありません。むしろ、字義的な理解から秘義的な理解に至るまで、あらゆる次元において聖書を総合的・全体的に理解できるようにすることにあります。
たとえば、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」(レビ記19章18節)は、隣人を愛するよう命じているという意味以外のものにはなり得ません。いかなる解釈の層も、この「神が私たちに、隣人を自分自身のように愛することを命じておられる」という核心的な理念にしっかりと根ざしていなければならないのです。
このように、パルデスは四つの解釈を並列的に並べたものではありません。ペシャトを土台として、レメズ、デラシュ、ソードへと、段階的に深まっていく構造を持っています。聖書はまず正確に読まれ、その上で思索され、問い直され、最後に神秘へと開かれていくのです。パルデスとは、解釈の自由放任ではなく、むしろ秩序ある「聖書の園を歩む道」だと言えるでしょう。
この読みの方法は、ヘブライ語本文を尊重しつつ、同時に聖書が持つ多層的な豊かさを損なうことなく味わうための知恵です。文字に忠実でありながら、文字に閉じ込められない。その緊張関係の中で、聖書は読む者を育て、導き続けてきました。パルデスとは、聖書を単なる過去の文書としてではなく、今もなお語りかけてくる「生ける言葉」として読むための、成熟した伝統的アプローチなのです。
黙示録1:1
「イェシュア・キリストの黙示。これは、神が、すぐに起こるべきことをそのしもべたちに示すために、キリストにお与えになり、キリストが御使いを遣わして、これをそのしもべヨハネに告げられたものである。」黙示録という書は、しばしば難解で恐ろしい書物として受け取られてきました。象徴に満ち、終末的なイメージが連なるこの書を前に、多くの読者は戸惑い、時に恣意的な解釈へと傾いてしまいます。しかし、ユダヤ的解釈伝統に根ざすパルデス(PaRDeS)の方法を用いるとき、黙示録は決して混沌や恐怖の書ではなく、むしろ秩序と希望をもって与えられた「神の啓示」として姿を現します。そのことは、冒頭の一節である黙示録1章1節を読むだけでも、十分に明らかになります。
まず、ペシャト(字義)の次元において、この節は啓示の伝達経路を簡潔かつ明確に示しています。すなわち、啓示は人間の側から生じたものではなく、神から始まり、イエス・キリストを経て、御使いによってヨハネに伝えられ、最終的に「しもべたち」に示されるものです。ここで用いられている「黙示(アポカリュプシス)」という語は、隠されたものを覆いから取り除くことを意味します。黙示録は秘密を隠す書ではなく、神がご自身の民に「明らかにする」ための書なのです。この字義的理解は、以後のすべての解釈の土台となります。
次に、レメズ(暗示)の次元では、この節がヘブライ語聖書(タナハ)預言の伝統、とりわけダニエル書を想起させている点に注目 できるでしょう。ダニエル書では、終末に関する幻が与えられつつも、それは「時が来るまで封じられる」ものでありました。しかし黙示録1章1節では、もはや封印は解かれ、「すぐに起こるべきこと」が示されると宣言されます。ここには、タナハにおいて待たれていた終末的啓示が、キリストにおいて新たな段階へと入ったという暗示があります。また「イェシュア・キリストの黙示」という表現自体が、キリストが啓示の内容であると同時に、その媒介者でもあることをほのめかしています。
デラシュ(解釈・教訓)の次元に進むと、この節は黙示録の読み方に対する重要な霊的指針を与えていることが分かります。啓示は、日付計算や恐怖を煽るために与えられたのではありません。それは「しもべたち」に示されるものであり、神に仕え、忠実に生きる者たちが、歴史の混乱の中でも希望を失わないための導きです。「すぐに起こるべきこと」という表現も、単なる時間的即時性よりも、神の救済計画がすでに現実の歴史の中で作動しているという神学的切迫感を伝えていると理解されます。
最後に、ソード(秘義)の次元において、この一節は天上と地上を貫く霊的な流れを描いています。神から始まり、キリストを通り、御使いを経て、人間へと至る啓示の下降は、ユダヤ神秘思想における「神の知恵が天から地へと降る構図」と深く響き合うでしょう。啓示とは、無限なる神の意志が、人間が受け取り得る形へと翻訳される出来事なのです。黙示録1章1節は、その神秘的なプロセスの起点を示しています。
このようにパルデスの四層を統合して読むと、黙示録1章1節は、黙示録全体の序文であると同時に、その解釈原理そのものを提示していることが分かります。字義的意味、暗示、教訓、秘義はいずれも互いに矛盾することなく、一つの全体像を形作っています。黙示録は恐怖の書ではなく、神がご自身のしもべたちに向けて、歴史の意味と希望を明らかにされる書なのである。パルデス的読解は、そのことを静かに、しかし確かに読者に教えてくれます。