高等批評の学者は、聖書の最初の五書をモーセが書いたのではないと常に主張しています。彼らは、神が立てたモーセが著者であるはずがない、と考えています。しかし、この主張は、イェシュア(יֵשׁוּעַ)がはっきりと示された見解(ヨハネ 5:46–47)と正反対です。おそらく彼らは、イェシュアよりも自分たちの方が正しいと信じているのでしょう。
この序文は、その主張に対する反論の意味も兼ねています。学者たちは聖書を「解体」することで給料と名声を得ていますが、聖書は決して彼らのために書かれたものではありません。ヘブライ語聖書(תַּנַ״ךְ、タナハ)の全39巻と新約聖書の27巻はすべて、神の民である古代イスラエルに向けて書かれた書物です。彼らは多くの歴史的動乱の中で、神が遣わされた預言者たちに従うこともありましたが、従わないことのほうがより一層多かったのです。
預言者モーセは、荒野をさまよう不平と不従順の民を導くのに大変な苦労をしました。それでも、『出エジプト記』によれば、彼は高き山の頂で二度にわたり、特別な神学校に招かれ、隠遁の時を与えられました。その神学校は、モーセただ一人だけのためのもので、教員は三位一体の神――父なる神、子なる神、聖霊なる神――です。(出エジプト24:12-18、34:1-28)唯一無二のセミナリーですね。
シナイ山神学校の学期はそれぞれ四十日四十夜で、食事も水も提供されていませんでした。この期間に、神は八十歳を超えたモーセに、宇宙、地球、星々、生命、そして人間の起源について講義されました。神の御言葉を正確に記憶する能力にも優れていたかもしれませんが、『ヨベル書』11章によれば、六日間の創造の記事は、神がモーセに口述して示した記録だと考えられます。モーセは天使の助けを受け、一語一語書き記すことによって、天地創造とアダムの堕落に関する神の啓示を受け取りました。この啓示は、聖書全体の冒頭をなす『創世記』第1章・第2章・第3章に記録されています。
聖典ではない『ヨベル書』でも、モーセが六日間の創造を書き記したことが明確に肯定されています。天使はモーセに「創造の完全な歴史を書き記しなさい。主なる神は六日間ですべての業と創造物を完成させ、七日目に安息し、それをすべての時代のために聖別された」と命じました。(ヨベル2:1)
さらにモーセは、出エジプト記33章11節が証言するように、主と「顔と顔を合わせて」多くの対話を行いました。したがって、創世記の記事の細部について不確かな点があった場合には、神に直接お尋ねしたものと考えられます。
しかし、一部の学者は、『創世記』はモーセがエジプトの王子として過ごした最初の四十年間に書いたものだと主張します。当時の彼には、執筆に必要な多くの資料や環境が整っていたはずだというのです。しかし、『出エジプト記』2章14–15節によれば、若きモーセは人を殺し、ファラオに命を狙われて恐怖のうちに逃亡しました。死の脅威に追われ、恐怖の中で逃亡する人が、手元の書物を持ち運ぶことなどまず考えられません。
さらに重要なのは、若い頃のモーセは「神の人」とはほど遠く、人を殺めた者であり、自分の息子に割礼さえ施していなかったことです。(出エジプト記 4章24–25節) 八十歳になって霊的に変えられたモーセこそが、六日間の創造の神聖な知識を山の上で受け取り、創世記の著者となったと考えるのが自然ではないでしょうか。
数千年にわたり、多くのラビ、牧師、神学者、学者が創世記について論じてきました。しかし、彼らの著作(私のものも含めて)は、聖書の著者たち自身の「注釈」には到底及びません。たとえば、詩篇33篇5b-9節は創世記1章に対する注釈です。
詩篇の著者は、神が天とその万軍をどのように創造されたかを語ります。主のことばによって、何もないところから万物は成ったのです。また、大陸の起源や海の深淵の由来も示されます。すべての奇跡は「主が仰せられると成り、命じられると堅く立つ」という形で起こりました。
モーセが学んだ神学校に勝る学校は世界にありません。どの学者や神学者が、聖書の著者たちよりも偉大だと主張できるでしょうか。聖霊の感動のもとで聖書の著者たちは神の命によって書き記しました。パウロよりも賢い学者はいるかもしれませんが、聖霊に感動されたことはありません。したがって、神の感動という基準から見れば、どの学者もパウロに勝ることはできません。どの神学者もモーセ以上の権威を持つことはありません。それは、シェイクスピア文学の最高の学者がシェイクスピア本人に勝ることはないのと同じです。
それで、著名な学者たちの前提や主張が、聖書の著者たちの記述と矛盾するとき、彼らは聖書の真理に反対していることになります。ビッグバン、ダーウィン進化論、そして自然主義のみによる起源の推測モデルは、聖書の創造を置き換えるために作られた近代の試みです。 聖書の著者たちは、神が物理的な世界のものに「機能を割り当てた」と述べたことはありません。加えて、創世記1~3章を「神話的歴史」という矛盾語法の表現として扱うことは、決してありませんでした。
また、エヌマ・エリシュ、アトラハシス叙事詩、エジプトの創造神話2とも無関係です。これらの異教の神話は創世記よりも早く書かれたものではありますが、創造に関する歪められた記録だったのです。真の歴史が歪められることが起こることを知っておられた全知の神は、ご自分の言葉を後世に伝える担い手としてイスラエルを選ばれました。神はレビ族を選ばれて、その部族からモーセを立てられました。シナイ山の頂で、神はモーセに多くのことを教られたといっても過言ではありません。
かつてエジプトの王子で、今は羊飼いとなったモーセが、異教の創世神話から何かを借りる必要などまったくありませんでした。八十歳のモーセは、神とただ二人で過ごした八十日のあいだ、決して手をこまねいていたわけではありません。モーセは多くの問いを投げかけ、神はそのすべてに答えられました。こうして彼は、創造主なる神ご自身から、真正の創造の歴史を受け取ったのです。
救い主であり宇宙の創造主であるイェシュアは、創世記はモーセが書いたと肯定されました。「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしをも信じるはずです。彼はわたしについて書いたのです。けれども、あなたがたが彼の書いたことを信じないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょう?」(ヨハネ5:46-47)
神の子イェシュアは今日も同じ問いを投げかけておられます。クリスチャンと呼ばれるあなたは、どちらの側に立ちますか。モーセが記した神の創造か、自然主義的進化か――どちらを選びますか。
本書は、創世記に書かれた最初の八つの出来事について、忠実な注釈を提供することを目的としています。これらヘブライ語で書かれた出来事は、創造の始まりからアダムとエバがエデンの園を追放されるまで――すなわち、人類が永遠に神の楽園から離れることになった歴史――を扱っています。それ以来、私たちは皆、この壊れた堕落した世界の荒野をさまよい続けています。孤独、虚無、悲しみ、うつ、病気、苦痛、怒り、苦しみ、嘆き、死、暴力、不正、偽善、無政府状態、テロ、戦争……そのリストは尽きません。
ヒューマニストたちは、理性的で、科学的で、「良い人」であろうとすることで、ユートピアを実現しようとします。共産主義者たちは社会に平等をもたらそうとします。しかし、これらの思想は失敗し、今も失敗し続けています。世界で最も市民的と言われる国でさえ、剣を帯びた警察官を必要としています。二十一世紀になってもなお、ロシアはウクライナに侵攻し、両国は現在進行形で戦争状態にあります。
さらに最近では、ハマスがイスラエルの民間人に対して致命的な越境テロ攻撃を仕掛けました。戦争の勃発に伴い、ガザの民間人の苦境をめぐって反ユダヤ主義が一気に燃え上がりました。予想されたことですが、パレスチナ人の圧倒的多数は、10月7日の大虐殺とイスラエル住民の拉致を支持しました3。パレスチナ自治政府が運営する学校では、幼い子どもたちに10月7日のジハードを称賛するよう教えていました4。
このすべての悪の根源はどこにあるのでしょうか。それはアダムとエバの罪です。私たちは皆、彼らの姿に似て生まれました。心の奥底では、誰もが資本主義者です。私たちは自己中心的です。多くの場合、他者の犠牲の上に自分の利益や富を追求します。住宅、交通、食料――すべてが高く払える者がより大きな欲望を満たす仕組みです。ファーストクラスは常にエコノミーよりも優れています。だからこそ自由市場は機能するのです。それは私たちの罪深く堕落した本性を映し出しています。
罪はどこから来たのか。なぜこれほど苦しみがあるのか。なぜ神は自然災害を止めないのか。死の起源は何か。人生の目的とは何か。これらの大きな問いの答えは、創世記1~3章にあります。ただし、聖書の全体の文脈の中で読む必要があります。創世記を他の65巻から切り離して読むべきではありません。
本書の参照順位は次の通りです。
この順位の最大の理由は、古代の人々は進化論的な思想に汚染されていなかったからです。聖書の66巻を聖霊の業と信じるなら、創世記1~3章を最もよく解釈できるのは聖書そのものです。
現代の自由派学者の中には、自分の業績が軽視されることに憤慨する人がいるかもしれません。しかし、私は謝罪しません。聖書は真理を求める普通の人々のために書かれたものです。学者に解釈の独占権はありません。彼らの洗練された議論や「証拠」は説得力があるように聞こえるかもしれませんが、その結果はしばしば神の明らかな啓示に反します。
たとえば、彼らはモーセが創世記を書いたのではないと結論づけます。しかし、イェシュアは燃える柴の箇所を引用して、「モーセの書(τῇ βίβλῳ Μωϋσέως テー・ビブロー・モーセオース)に……と書いてあるのを、あなたがたは読んだことがないのか」(マルコ12:26)と語られました。
また、エマオへの道で「モーセやすべての預言者から始めて、聖書(ταῖς γραφαῖς タイス・グラファイ)の至るところで、ご自分について説明された」(ルカ24:27)のです。イェシュアは、モーセが著者であることを明確に認められたのです。
本書の解釈の姿勢は「誰にも盲従せず、誰にも敬意を払う」です。この姿勢によって、天蓋説、間隙説、日=長時代説など、19世紀以降の神学者や学者が好んだ理論から自由になれます。
具体的な例として、創世記1章に登場する珍しい表現 תֹהוּ וָבֹהוּ 「トフ・ワボフ」(tohu wavohu)の解釈が挙げられます。中世以降、この語は「形なく、空しく」(without form and void)と訳されてきました。しかし、それよりも歴史的に古いLXX(七十人訳聖書)では「見えず、未完成」(invisible and unfinished)と訳されていました。どちらが正しいのでしょうか?この本はその問いに対して明確な答えを与えています。
また、科学についても同様です。すべての科学が同等に作られたわけではありません。観察・再現可能な科学(実証科学)と、歴史的に観察・再現不可能な「科学」とに分けられます。後者は宇宙や生命の起源を解明しようとしますが、それらは実験室で再現も観察もできません。ビッグバンを観察することはできませんし、地球を創造することもできません。マクロ進化の過程を誰も録画していません。
観測不可能な「科学」におけるすべての起源モデルは、創造主を必要としないように設計されています。チャールズ・ライエルが友人に宛てた手紙で述べたように、地質学による地球の地層の起源に関する研究は「……科学をモーセから解放する」ものになると書いています6。
一方、聖書66巻全体は一貫して、自然は神の被造物であり、その所有者も神ご自身であると証言しています(詩篇50篇10~12節など)。論理的言えば、宇宙とそのすべての法則を創造したお方だけが、本当の意味で奇跡を起こすことができます。奇跡とは、自然法則を「破る」のではなく、創造主である神がご自身の被造物に対して一時的に例外を設けることです。
たとえば、イェシュアが嵐の海の上を歩まれたのは、重力の法則を曲げられたからではありません。重力の法則を定めた創造主ご自身が、その法則を一時的にご自分のために「休止」させたのです。法則を制定した方がおられるからこそ、必要に応じてその適用を止めることもできるのです。こうして奇跡は、神の所有権と主権をはっきりと示すしるしとなります。
クリスチャンの信仰は奇跡の上に成り立っています。無からの創造、処女降誕、死からの復活――これらがなければ、イェシュアはただの人でしかありません。それではキリスト教は終わりです。
神は、自然のすべてのものに対するご自身の「著者としての権利」と「所有権」を明確に主張しておられます。測り知ることのできない知恵のうちに、神は自然に対してご自分が望むことを何でも行うことができます。したがって、キリスト教的世界観においては、観測可能な科学と神の奇跡はどちらも欠くことのできないものです。
宇宙規模で起こった最大の奇跡とは、まさにこの一点に尽きます――「初めに、神は天と地を創造された」。ここから歴史が始まりました。それ自体が「大いなる奇跡」でした。そして、この「自然」と「超自然」が結び合わさった世界観こそ、本書の土台となるパラダイムなのです。
私は、モーセが記した最初の八つのエピソード(創世記1~3章)について、読者の皆様に新たな視点をお届けしたいと願っています。とりわけお伝えしたいのは、創世記1~3章こそが、救いの福音と、新天新地における永遠のいのちの双方に欠かすことのできない、ただ一つの礎であるという点です。