第三日パートB: 良い植物

1 序論

これは、創世記の第3話に関する二部構成の解説のパートBです。すでに陸地が現れていました。その後、神は大地に植物を生み出すよう命じられました。

2 創世記1章11節a:生き物

וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים תַּדְשֵׁא הָאָרֶץ דֶּשֶׁא עֵשֶׂב מַזְרִיעַ זֶרַע
ヴァヨーメル エロヒーム タッドシェー ハーアーレツ デシェー エーセヴ マズリーア ゼラァ
1:11a 神は仰せられた。「地は青草を芽生えさせ、種を生じさせる草を生み出せ......

これで神が4回目に発した言葉です。乾いた地が現れた後、神は再び地に対して命令を与えました。地は、(a) 草木、(b) 種を結ぶ草、(c) 種のある実を結ぶ木を生み出すよう指示されたのです。この節に出てくる名詞はすべて単数形ですが、エロヒーム(神)だけは例外です。

ここで右から三番目の語は、注目すべき動詞 תַּדְשֵׁא タッドシェーであり、これは根動詞 דָּשָׁא ダーシャーのヒフィル幹です。おさらいすると、ヒフィル幹は根動詞の「使役」の意味を表します。したがって、直訳すると次のようになります。「地よ、(a)(b)(c)を芽吹かせよ(=地がそれらを芽吹かせるようにせよ)」。

ちなみに「ダーシャー」はヘブライ語聖書では非常に珍しい語で、出現するのはわずか二回だけです。もう一つの箇所はヨエル書2:22で、そこでは「荒野が緑になった」とあります。このことから、第3の日に創造された植物は緑色であると窺い知れます。

もし神が空の「ラキーア」(広がり・大空)に命令して、そこから植物を生み出させ、地上に落とすような記述だったら、創世記はまるでおとぎ話になってしまいます。だからこそ、この11節は観察可能な科学に基づいた正確な記述であると、私たちは理解を示すことができます。神は植物が育つのに必要な栄養分を地に備えさせておられたのです。地そのものが植物を「生み出す」のではなく、植物が育つための必要条件を提供しているにすぎません。

したがって、神はさまざまな種類の植物を設計されたに違いありません。植物は確かに「生き物」(living things)です。しかし「生きている存在」(living beings)ではありません。自由意志を持って自由に動き回るようには設計されていません。ですから、植物は本当の意味では「死にません」。動物が持っている「あの何か」(命の息吹のようなもの)を持っていないからです。

さて、カテゴリー(a)の「vegetation」にあたるヘブライ語は דֶּשֶׁא デシェーです。この語は根動詞と全く同じ綴りです。この名詞の主な訳語は「青々とした草」「緑の草」です。

カテゴリー(b)の「種を結ぶ草」に対応するのは עֵשֶׂב מַזְרִיעַ זֶרַע エーセヴ マズリーア ゼラァです。このフレーズの最初の単語 עֵשֶׂב エーセヴは「ハーブ」「草」「青草」「緑の植物」などを意味し、集合的な名詞として使われることが多く、広義には「草本植物全体」を指します。食用・非食用を問わず、「地表に生える草本植物」を総称する語です。創世記1章では、木と区別される被造物として、低く地に生える植物を示します。神の命令により自発的に地から生じる被造物であり、生命の秩序と豊かさの象徴と考えられます。エーセヴは人間や動物の命を支える基礎を成す存在です。

フレーズの二番目の単語 מַזְרִיעַ マズリーアの意味は、「種を生じさせる」「種を実らせる」「種を出す」があります。この動詞は זָרַע ザーラー(「種をまく」「繁殖させる」)という根動詞のヒフイル形の分詞です。直前の「草」を修飾し、「種を生じさせる草」 という意味になります。単なる存在描写ではなく、機能・目的を明示する語です。草は一度きりの存在ではなく、再生産能力を内在的に持つ「生き物」として創造されていて、被造物に与えられた「命の継続性」を強調されます。

フレーズの最後の単語 זֶרַע ゼラァは、「種」「種子」「子孫」「血統」と言った意味があります。文脈により、ここでは明確に植物学的な「種子」と解釈した方が正しいでしょう。後の創世記(例:3:15、12:7)では、神学的に重要な「子孫」の概念へと展開されます。 「種」は生命が秩序をもって継承される単位であり、神の創造が偶然ではなく、計画的・持続的であることを示します。

したがって、このフレーズの直訳は「種を生じさせる草」になります。「種を実らせる草」とも訳されます。この表現は、草が神の命令に従って存在する被造物であると同時に、自己増殖の力と秩序を内包した存在として創造されたことを明確に示しています。創世記1章における植物の描写は、単なる自然現象の叙述にとどまらず、神が生命に機能と目的、さらに継続性を与えたことを告げる、きわめて深い神学的宣言なのです。

簡単に言うと、種を結ぶものを指します。私なたは自分が普段どれだけの「種」を食べているか、考えたことがありますか?豆類、穀物(トウモロコシ、オーツ麦、大麦、米など)、ナッツ類などがその代表例です。

さて、大手進化論者たちによると、

種子植物は「精子植物」(spermatophytes)と呼ばれます。維管束植物が種子を進化させたことは、非常に大きな出来事でした。実際、維管束組織の進化に匹敵するほど重要だったと言えるでしょう。種子は、乾燥した世界に子孫を放出するという問題を解決したのです。種子が登場して以来、維管束を持つ種子植物とその子孫たちは、陸上のあらゆる生態的ニッチを埋め尽くすほど多様化しました。現在、維管束を持つ種子植物が地球を支配しているのです。1

しかし、この創世記1章11節では、種子植物は進化していません。神は地に対して、24時間以内に種子植物を芽吹かせるよう命令されたのです。創造の週の間、植物は急速に成長しました。ここに、創造と大進化論の明確な対立があります。

3 創世記11節b:それぞれの種類に従って

עֵץ פְּרִי עֹשֶׂה פְּרִי לְמִינוֹ אֲשֶׁר זַרְעוֹ־בוֹ עַל־הָאָרֶץ
エーツ ペリー オーセー ペリ レミーノー アシェル ザルオー・ボー アル・ハーアーレツ
11節b:......地の上に、それぞれの種類に従って種のある実を結ぶ果樹を」

このフレーズはまず עֵץ エーツから始まります。これは「木」「樹木」を意味し、地上に立つ木本植物を指します。創世記1章では、低く地に広がる草 עֵשֶׂב ゼラァと区別され、より成熟し、実を結ぶものとして描かれています。続く פְּרִי ペリーは「実」「果実」を意味し、ここでは「実を結ぶ木」、すなわち עֵץ פְּרִ エーツ ペリーとして、「果実をつける木」という一まとまりの和訳を形成しています。

と言うことで、カテゴリー(c)は「実を結ぶ木」――ヘブライ語でエーツ ペリーです。この表現では、「木」が「構成形」(construct state)になっています。一方、「実」は「絶対形」(absolute state)です。

直訳すると「地の上に、それぞれの種類に従って種のある実を結ぶ木」という意味です。この小節は、第3の日に果樹がすでに実を結んでいた(オーセー ペリ)ことを教えてくれます。その実には種が含まれていて(ザルオー・ボー)、 つまり果樹は成熟した状態で創造され、後に創造された動物たちやアダム、エバがその実を楽しめるように準備されていたのです。

少し具体的に、 זַרְעוֹ־בוֹ ザルオー・ボーは二つの語が結合した形で、「その種がその中にある」という意味です。ザルオーはゼラー から派生した「構成形」です。「種」、「種子」を指します。語尾のオーは「それの」を意味する接尾辞になります。 続いて、ボーは「その中に」という意味で、果実の内部に次世代の命が内包されていることを明確に示します。これは生命の継続が外部に依存するのではなく、被造物そのものの内に組み込まれていることを強調する表現です。

次に、重要な語 לְמִינוֹ レミーノーを見てみましょう。これは「その種類に従って」と訳されます。最初の文字 לְ 「レ」は前置詞で、この文脈では「に従って」「に応じて」と訳せます。続く מִינוֹ ミーノーは「種類」を意味します。

Blue Letter Bibleによると、次の情報が得られます。2

生き物のグループは、同じ創造された「種類」(kind)に属するのは、同じ祖先の遺伝子プールから派生した場合です。これは新しい種の出現を排除するものではありません。なぜなら、それは元の遺伝子プールの分割にすぎないからです。情報は失われたり保存されたりしますが、獲得されることはありません。集団が孤立して近親交配が起きると、新しい種が生まれる可能性があります。この定義によれば、新しい種は新しい「種類」ではなく、既存の「種類」のさらなる分割なのです。
この「ミーヌ」の定義は、進化論者の定義とは異なります。進化論者の一部は、一つの種が別の種に変形することを「マクロ進化」と定義します。

それでも、生物学の分類学は、外見のパターンに基づく定義と分類の結果であり、元素の周期表ほど厳密ではありません。分類学は、ある意味で「芸術」でもあり、他の基準に基づいて別の体系を提案することも可能です。

だからこそ、聖書の著者が「種類」を分類の手段として用いるのは、何もおかしくありません。興味深いことに、「ミーヌ」は「分け与える・割り当てる」という意味の未使用の根幹動詞から来ています。つまり、同じ種類から複数の種を割り出すのです。キリスト教の世界観では、植物の膨大な多様性は、エロヒーム(神)の知的な設計に由来します。

創世記は、植物がそれぞれの種類に従って繁殖することを強調しています。この節では「種」と「実」がそれぞれ2回登場します。聖書は、マスタードの種からリンゴの木が生えることはないと明確にしています。「種類」の中には、植物が異なる環境に適応できる十分な遺伝情報が含まれているのです。

最後の עַל־הָאָרֶץ アル・ハーアーレツは、「地の上に」「地上において」という意味で、これらすべての生命の営みが、抽象的な世界ではなく、具体的な「地」という被造世界の中で展開されていることを示しています。

土と水分さえあれば、植物は地から芽吹いてきます。手入れをしない裏庭のある家は、すぐに雑草や背の高い草で覆われてしまいます。それらがどこから来るのか、私たちは知りません。今日でも、地は神の命令に従っているのです。

全体としてこの表現は、果実を結ぶ木が、それぞれの種類に従い、果実の中に種を宿しながら、地の上で継続的に命を生み出す存在として創造されたことを描いています。これは単なる植物描写ではなく、神が生命に秩序・機能・自己継承性を与えたという、創世記1章の中心的な神学思想を雄弁に語る表現なのです。

4 創世記11節c:こうなった。

וַיְהִי־כֵן׃
ヴァイェヒー・ケーン。
11節c:すると、そのようになった。

「すると、そのようになった。」——第三日目に、二回もありました。

思い出してください。第二日目では、ラキアー(大空)が神の命令に従って水を上下に分ける働きをしました。その締めくくりとして、6節に「こうなった。」とあります。また、神は最初に地の一部であった水たちに「一か所に集まれ」と命じ、乾いた地が現れるようにされました。それも9節の終わりに「そのようになった。」と記されています。ですから、11節cの「そのようになった。」は、これで三回目になるわけです。

ここには「地が神の命令を実行する」という一貫したパターンが見られます。「そのようになった。」という言葉からは、神の設計と自然の法則が確立されたことがうかがえます。

では、なぜ第1日目には「こうなった。」がないのでしょうか?第3節の「光あれ」という命令は、天にも地にも向けられたものではありません。神が語られたその瞬間に、「光があった。」と即座に実現しました。それは、神ご自身のシェヒーナー(臨在)の栄光が、ただ地に向かって輝き出しただけだからです。神の本質そのものに内在する輝きであるため、第一日目には「そのようになった。」という言葉が必要なかったのではないでしょうか。

5 創世記12節a:地は生き物を生み出した

וַתּוֹצֵא הָאָרֶץ דֶּשֶׁא עֵשֶׂב מַזְרִיעַ זֶרַע לְמִינֵהוּ וְעֵץ עֹשֶׂה־פְּרִי אֲשֶׁר זַרְעוֹ־בוֹ לְמִינֵהוּ
ヴァットーツェー ハーアーレツ デシェー エーセヴ マズリーア ゼラア レミーネーフー ヴェエーツ オーセー・プリ アシェル ザルオー・ボー レミーネーフー
1:12a節:地は青草を生えさせ、種類ごとに種を持つ草を生えさせ、また種類ごとに種を自分の中に持つ実を結ぶ木を生えさせた。

1:12a節に見られる単語の多くは、すでに前節に現れている語彙です。そう言う意味で、この半節は一見すると繰り返しが多くて冗長に感じられます。しかし、ユダヤ的な思考では、こうした繰り返しは強調を表す重要な手法です。ここでは、地が「非生物から生物的なものを生み出した」という超自然の歴史における出来事を強く印象づけているのです。

さて、動詞 וַתּוֹצֵא ヴァットーツェーは、根語 יָצָא ヤーザーのヒフィル形です。この語幹の基本的な意味は「外に出す」「産み出す」「引き出す」で、「deliver(産み出す・届ける)」というニュアンスも含まれます。ヘブライ語聖書で非常に頻繁に使われる動詞なので、「生み出した・産み出した」という日本語訳は非常に適切です。

地は神の命令に従って、三種類の植物生命を「産み出した」——まるで神が顧客で、地がその注文に応えるかのように。強調されているのは、神が直接手でそれらを「作った」のではなく、神が定めた自然の法則によって、地自身に「種類ごとに」植物を生み出す能力を与えた、という点です。つまり、植物には神の直接的な「神聖な御手(divine touch)」はないのです。植物は消費され、使い捨てられるものでありながら、種類ごとに自己再生産できる有機る物質にすぎません。

植物は「生き物(living things)」ではありますが、動物のような「生きている存在(living beings)」ではありません。木の幹を殴っても痛みを感じることはなく、草を踏みつけても暴力を振るったという罪悪感は生まれません。草は苦しみを感じることはないからです。

しかし、神はその計り知れない知恵によって、これらの生き物を創造されました。ルカの福音書12章27-29節で、イエスは次のように言われています。

野のゆりについて、よく考えなさい。どうして育つのか。労せず、紡がず。しかし、わたしはあなたがたに言う。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも着飾ってはいなかった。きょうは野にあって、あすは炉に投げ入れられる野の草でさえ、神はこのように装ってくださるのだから、あなたがたには、どれほどよくしてくださることであろうか。信仰の薄い者たちよ!

イスラエルの最も富んだ王ソロモンの、豪華な衣装やローブでさえ、ゆりの花一つに及ばないのです。イエスは確かに、神のデザインの精巧さと美しさをよく知っておられました。人間の手で作られたどんな物も、神が被造物を通して示される知性の現れに優ることはできません。

さて、イエスが植物と動物をどう見分けていたかを見てみましょう。マタイの福音書10章29節で、イエスはこう言われています。

二羽の雀が一アサリオンで売られているではないか。それなのに、あなたがたの父のお許しがなければ、その一羽さえ地に落ちることはない。

野の草や花々は、きょうは生きていて、あすは炉に投げ込まれる。一方、雀は神のお許しなしには地に落ちることはない。これらの箇所は、神が植物よりも動物をより大切にしておられることを示しています。あとで見てわかるように、その主な理由は、動物には「nefesh chayyah(生きる魂)」が与えられているのに対し、植物にはそれがないからです。

また、この節だけで「種類ごとに(after their kind)」という表現が二度も出てきます。これは、創造のこの特徴が非常に重要であることを意味しています。「種(seed)」という言葉も二度登場します。文脈から、「種類ごとに」と「種」の間に明確なつながりが見て取れます。したがって、「種」には植物が自分の種類通りに再生産するための遺伝情報が含まれている、と解釈するのは妥当です。この解釈は、観察可能な科学とも完全に一致します。

神は決して、一つの種類が別の種類に変わるなどとはおっしゃいません。むしろ、創世記は一つの種類が同じ種類を再び生み出す、と明確に述べています。しかし、大規模な生物進化論者たちは正反対のことを主張します。ここにもまた、創世記と大規模進化論との間に根本的な相容れなさが存在するのです。

6 創世記12節b:三日目について、神の評価

וַיַּרְא אֱלֹהִים כִּי־טוֹב׃
ヴァヤール エロヒーム キー・トーヴ
1:12b節:神はそれが良いと見ておられた。

これは三日目において、神が「良い」と見ておられる二度目の箇所です。実際、三日目だけが、神が二度も「良い」と評価された唯一の日です。神は乾いた地を「良い」と見なし、またその地に生きる植物たちをも「良い」と見ておられたのです。

私たちは、何をするときも「神の御目には良い」とされることが、何よりも最高の報いである、という姿勢を持つべきです。地は、神の命令に従って乾いた陸地を現れさせ、また種類ごとに植物を生み出すという素晴らしい働きを果たしました。そして神は、それを見て「良い」とおっしゃったのです。

7 創世記1:13節:三日目の終わり

וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר יוֹם שְׁלִישִׁי׃ פ
ヴァイェヒー・エレヴ ヴァイェヒー・ボーケル ヨーム シェリーシー.
1:13節:そこに夕あり、また朝あり。三日目となった。

正直に言って、創世記1章を素直に読む限り、神は各「日」を同じ長さの時間で創造されたと解釈するのが自然です。具体的には、夕と朝があって、24時間の1日ということになります。

「第三」という序数詞が使われていることから、創造の出来事は時間的に順序立てて起こったことがわかります。つまり、一日目と二日目の創造の出来事が先に起こり、その後に三日目が続いたのです。植物が生えるために必要なすべての条件——一日目に創造された水、二日目に創造された空気、そして三日目に現れた乾いた陸地——が、すでに整えられていたわけです。

現代の科学書ではありませんが、聖書は古代の人々にとって、最も優れた科学書だったと言えます。

8 まとめ

三日目に神が地に新しく生み出させたものは、乾いた陸地と海でした。その後、神はさらに地に命じて、乾いた地の上に青草を生えさせ、種を持つ草を生えさせ、また種を自分の中に持つ実を結ぶ木を生えさせました。聖書は、すべての植物が「種類ごとに」再生産するように設計され、造られたことを非常に明確に述べています。

他の創造の日々と比べて、三日目は神が少し「手を離した」印象を受けます。神御自身が直接行動されるのではなく、地に「乾いた陸地と海を形作れ」と命じられたのです。これによって、私たちは地が混沌とした状態ではなかったと推測できます。地にはすでに、種類ごとに青草、種を持つ草、実を結ぶ木を生み出すためのすべての潜在能力が与えられていたのです。

さらに、創世記三日目の記述は、「鶏が先か卵が先か」という有名な問題に対する聖書的な答えを示しています。聖書の答えは「鶏」です。一方、進化論者は「卵が先」と主張します。同様に、ここでは「木が先にあり、その中に次の世代のための種があった」ということになります。これもまた、大規模進化論との明確な対立点です

神の霊感を受けた言葉は、繰り返しによって強調を加える手法を用いています。創世記は「種類ごとに」という点を強く否定する形で進化の考えを退けています。全知の神は、数千年前から、ポストモダン時代に「大規模進化論」が流行することを予め知っておられました。だからこそ、聖霊の導きのもとでモーセは、11節の内容を12節で繰り返し、「種類ごとに」という科学的事実を強調したのです。有神論的進化論は、この神の創造に関する啓示に明らかに反しています。

おそらく聖霊は、今すべてのクリスチャンに、全知の神の科学を完全に信頼するよう促しておられるのでしょう。神には科学の知恵と理解があるのでしょうか。箴言3章19節はこう語っています。

主は知恵によって地を据え、
悟りによって天を堅く立たせられた。

Notes

  1. LibreTexts Biology “Introductory Biology (CK-12) 9.9: Seed Plants.
  2. Blue Letter Bible