「見えなく、未完成で」の方がなぜより意味が通じるのか?

1 導入

前の章で私たちが組み立ててきた「見えなく、未完成で」の理解は、既存の翻訳や解釈とは大きく異なっています。私たちの理解は、紀元前3世紀の70人の優秀なユダヤ人学者たちが創世記1章2節に対して持っていた解釈に、より近いものとなっています。彼らはヘブライ語聖書をギリシャ語に翻訳しました。その翻訳は、今日、セプトゥアギンタ(略してLXX)と呼ばれています。

新約聖書の著者たちにとって、少なくともモーセ五書を含むLXXは重要な参照資料でした。1世紀のユダヤ人たちがLXXを正式な正典として扱っていたかどうかについては、今も議論が続いています。それでも、古代のユダヤ人学者たちは、当時ギリシャ語が今の英語のように広く使われていた時代に生きていて、ヘブライ語もギリシャ語も完璧に使いこなせる専門家でした。だからこそ、彼らは創世記1章の本来の意味を正しく捉えていたはずです。

2 「トーフー ヴァボフー」をヨセフスとLXXはどう解釈したか

さて、紀元1世紀になると、ユダヤ人の歴史家ヨセフスはギリシャ語で大著『ユダヤ古代誌』を完成させました。興味深いことに、ヨセフスは創世記1章の最初の3節を次のように解釈しています。

「初めに神は天と地を創造された。しかし地はまだ姿を現さず、深い闇に覆われていて、その表面に風が吹き渡っていた。そこに神が光あれと命じられた。」

このヨセフスの解釈は、LXXの訳と非常に近いものです。聖典とされていたLXXでは、次のように記されています。

Ἐν ἀρχῇ ἐποίησεν ὁ Θεὸς τὸν οὐρανὸν καὶ τὴν γῆν. Ἡ δὲ γῆ ἦν ἀόρατος καὶ ἀκατασκεύαστος, καὶ σκότος ἐπάνω τῆς ἀβύσσου, καὶ πνεῦμα Θεοῦ ἐπεφέρετο ἐπάνω τοῦ ὕδατος.
エン アルケー エポイエーセン ホ テオス トン ウラノン カイ テーン ゲーン。ヘー デ ゲー エーン アオラトス カイ アカタスケウアストス、カイ スコトス エパノー テース アビュッソウ、カイ プネウマ テウー エペフェレト エパノー トゥー ヒュダトス。
訳:初めに神は天と地を造られた。しかし地は見えず、未完成のままであり、深淵の上には闇があり、神の霊は水の面を動いていた。

70人のユダヤ人学者たちは、ヘブライ語の「トーフー ヴァボフー」をギリシャ語で「ἀόρατος καὶ ἀκατασκεύαστος」(アオラトス カイ アカタスケウアストス)と訳しました。この「アオラトス」に最も近い日本語は「見えない」です。 ヨセフスの「目に見えなかった」(直訳)もしくは「姿を現さず」という表現は、七十人訳聖書(LXX)と一致しています。 トーフーに対応するギリシャ語の形容詞「アオラトス」(ἀόρατος ) は、ローマ1:20、コロサイ1:15-16、1テモテ1:17、ヘブル11:27に登場し、そこでは「見えず」または「姿を現さず」と訳されています。

このフレーズの二番目の語である「カイ」は、日本語の「と」に相当します。新約聖書で最も多く使われている言葉です。

最後の語「アカタスケウアストス」は、新約聖書の著者たちによって直接用いられている語ではありません。しかし、この語は語頭にアルファ「ア」(否定接頭辞)を含んでおり、「カタスケウアストス」を否定する機能を持っています。 なお、「カタスケウアストス」は、マタイ11:10、マルコ1:2、ルカ1:17・7:27、ヘブル3:3・3:4・9:2・9:6・11:7、1ペテロ3:20などに登場します。その基本的な意味は「整える」「備える」「準備する」「用意する」であり、特に人や物のために必要なものを整える者を指します。さらに、建造者が建物を建設する文脈でも用いられ、必要なものをすべて整え、備え付けるというニュアンスを含んでいます。それで、「アカタスケウアストス」はその反義語として、「整えていない」「備えていない」「準備できていない」「用意していない」となり、建物がまだ「未完成」だと訳せるのではないでしょうか。

したがって、「トーフー ヴァボーフー」の古来の解釈は、「見えなく、未完成な状態」であったと論じることができます。 これは、今日私たちが深く考えることもなく受け入れている「形がなく、空虚である」という後世の訳とは大きく異なります。 多くのクリスチャンは、「形がなく、空虚である」という表現を混沌の状態だと解釈していますが、この現代的な理解は、いくつかの望ましくない理論を生み出してきました。本章では、その中でも特に「修復(再創造)理論」に焦点を当てて考察していきます。

3 聖書の他の部分との一貫性

回復論についてコメントする前に、「invisible(見えない)」という解釈は「formless(形がない)」よりも優れているのでしょうか?文脈からすると、第2節ではまだ光が創造されていませんので、暗闇の中で地球を見ることはできません。つまり、モーセの視点から見て、地球は見えず、つまり見えない状態だったということです。

一方で、「formless」という訳は、モーセが完全な暗闇の中で見ることができたという前提に立っています。暗闇の中で、地球が最初に全く形がなかったと本当に確かめられるでしょうか?真っ暗な部屋では自分の体さえ見えませんのに?では、どうしてモーセが暗闇の中でそれが形がないと見ることができたというのでしょうか?

さて、聖書の中で 「トーフー ヴァボーフー」というフレーズが並んで登場する唯一の他の箇所は、エレミヤ書4:23です。LXXでは、この節は次のように訳されています。

ἐπέβλεψα ἐπὶ τὴν γῆν καὶ ἰδοὺ οὐθέν καὶ εἰς τὸν οὐρανόν καὶ οὐκ ἦν τὰ φῶτα αὐτοῦ.
エペブレプサ エピ テーン ゲーン カイ イドゥー ウーセン カイ エイス トン ウーラノン カイ ウーク エーン タ フォータ アウトゥー
私は地を見たが、見よ、何もなかった。そして天を見たが、そこには光がなかった。

一貫して、LXXのユダヤ人翻訳者たちは、エレミヤ書4:23で地球を「形がない」と見なしていません。むしろ、彼らは「トーフー ヴァボーフー」を οὐθέν (ウーセン) という言葉で訳しました。これは οὐδείς (ウーデス) の派生語で、新約聖書に200回以上登場します。この言葉とその派生語は、「誰一人もいない」または「何もない」として訳されます。本質的に、それは否定を表す――「no」と「not」です。したがって、ヘブライ語の「トーフー ヴァボーフー」に対する LXXの日本語訳として「何もなかった」は適切です。光のない空の詩的な並行表現は、初めの暗闇を示しています。

驚くべきことに、光が来る前に最初に創造された地球には、すでに形がありました。ヨブ記26章7節には、地球が空間に浮かんでいる、と記されています。類似の例として、空にある球形の太陽と月が挙げられます。聖書の創造記は、科学者だけが理解できるような書き方にはなっていません。むしろ、創世記を素直に読むならば、神は誰にでも理解できるように世界を創造されたとさえ言えるでしょう。

何よりも重要なのは、聖書の他の書物が、地球が球の形をしていることをはっきりと教えてくれている点です。したがって、最初から「形がない」状態だったわけではありません。箴言8章27節は、その決定的な証拠です。

בַּהֲכִינוֹ שָׁמַיִם שָׁם אָנִי בְּחוּקוֹ חוּג עַל־פְּנֵי תְהוֹם׃
バハキーノー シャマイム シャム アニー ベフーコー フーグ アル・ペネイー テホーム
神が天を備えられたとき、そこに私はいた。深淵の面の上に円を定められたとき。

このヘブライ語 חוּג 「フーグ」は、聖書の中でわずか三度しか用いられていません。残る二箇所は、「地の円の上に座しておられる方」(イザヤ 40:22)、 「天の大空を歩まれる方」(ヨブ 22:14)です。満月のイメージは、「フーグ」を理解するうえで有益な例えとなるでしょう。

これら三つの箇所すべてにおいて、主語は神です。そこでは、全能の神が行動されている姿が描写されています。もちろん、「座す」「歩む」といった表現は比喩です。しかしそれでもなお、「円」を、創造の初めにおける地球の形状を示すものとして、字義的に受け取ることは可能です。

要約すると、地は決して「形のないもの」ではありませんでした。「トーフー」のより適切で一貫した訳語は、「混沌」ではなく「不可視(見えない)」です。この解釈は決して新しいものではなく、古代の七十人訳のユダヤ人学者たちや、歴史家ヨセフスも 「トーフー ヴァボーフー」をそのように理解していました。地は見えず、未完成であったのであり、混沌としていたのではありません。加えて、聖書の中に、地が球状の形を持つことを示唆する複数の記述を見いだすことができます。

4 創造か、再創造か?

回復説にはさまざまな変種がありますが、共通するのは、創世記1章2節の地がすでに荒廃した状態にあったと仮定する点です。彼らは「トーフー ヴァボーフー」を「形なく、空しく」と訳し、そこに荒廃と混沌のニュアンスを込めています。

回復説の一つのバージョンでは、1節で創造された天と地は最初から完璧なもので、無からの創造でした。しかし、1節と2節の間に何らかの劇的な出来事が起こり、完璧だった地に混沌がもたらされ、完全に荒廃してしまったのです。そして3節以降で、神は再創造を始められたとされます。つまり、創世記1章3節以降は創造ではなく、再創造だというわけです。

回復説の支持者たちは、イザヤ書34章11節とエレミヤ書4章23節を挙げて、この混沌はサタンの反逆の結果だと主張します。しかし、この主張は本当に成り立つでしょうか? まず注目すべきは、イザヤ書34章11節後半では「トーフー」と「ボーフー」が別々の言葉として使われており、 「トーフー ヴァボーフー」というフレーズになっていない点です。

וְנָטָה עָלֶיהָ קַו־תֹהוּ וְאַבְנֵי־בֹהוּ׃
ヴェナター アーレーハー カヴ・トーフー ヴェアヴネー・ヴォーフー
 そして、その上にトーフー の測り縄を張り、ヴォーフーの垂準を置かれる。

むしろ、この詩的な預言では、「トーフーの測り縄」と「ヴォーフーの下げ振りの石」という表現が並行して使われています。これは「トーフー ヴボーフー」というフレーズではありません。別々に使われていますが、同じ意味の詩的な表現なのです。

イザヤ書34章の文脈は、確かに神の怒りと、滅ぼされるべき民族に対する裁きに関するものです(イザヤ34:5)。しかし、この節に、「トーフー」と「ヴォーフー」が登場するからといって、創世記1章2節の地が神の裁きの結果だったと結論づけるのは、必ずしも論理的とは言えません。なぜなら、一日目にはまだ人間が存在しておらず、神が裁く対象がいなかったからです。ここでの「トーフー」と「ヴォーフー」の文脈は全く異なります。それは、迫り来る裁きと破壊についての詩的な預言なのです。一方、創世記の叙述では、「トーフー ヴァボーフー」は地球の始まりの状態を指しています。

LXXの翻訳者たちは、イザヤ書34章11節後半の二つの詩的な要素を

καὶ ἐκτενεῖ ἐπ᾽ αὐτὴν σπαρτίον γεωμέτρου κενόν
カイ エクテネイ エピ アウテーン スパルティオン ゲオメトルー ケノン
「その上に、空虚にする測量者の縄を張り渡す。」
という一つの文に表現します。 つまり、直訳の「空虚な測量者の縄」一句に要約し、「垂準」(下げ振り石)を省き、「ヴォーフーに」対して「ケノン」 (κενόν)を用いています。辞書形(原形)で見ると、この単語は新約聖書に18回出現します。 その意味は、「空っぽ」や「虚しい」に訳せます。「虚しい…縄…」という訳語は意味論的に整合しないため、文脈を踏まえるならば、「空虚にする」と解するのが妥当でしょう。

大事なのは、イザヤ書34章の裁きは局所的であって、世界規模ではありません。実際、同章には荒廃したユダの地にさまざまな動物が住み着いている様子が描かれています。ペリカン、ハリネズミ、フクロウ、カラス、ジャッカル、ダチョウ、砂漠の生き物、オオカミ、毛むくじゃらのヤギ、夜の怪物、木の蛇、タカなどです。彼らは、荒廃の荒野と化した民の地を占領したのです。一方、創世記1章2節においては、地全体が闇に覆われ、水の下に沈んだ状態として描写されています。

では、エレミヤ書4章23節はどうでしょうか。先に述べたように、ここでの「トーフー・ワボーフー」は「形なく空しく」ではなく、「それはなかった」と訳すのが適切です。七十人訳(LXX)のこの解釈は、ユダの滅亡と一致します。ユダの地は征服されました。「私は見た。見よ、肥沃な地は荒野となり、そのすべての町は【主】の前で、その激しい怒りの前に引き倒された。」(エレミヤ4:26)。ここでも、エレミヤ書4章の文脈は六日間の創造の文脈とは大きく異なります。

最後に、聖書どこを探しても、初めに地が裁きによって荒廃したとは記されていません。もし創世記1章2節の地が本当に神の裁きの結果だったとしたら、創世記1章全体は創造ではなく再創造ということになります。しかし、聖書にはそのような再創造についての言及は一切見当たりません。新約聖書の著者たちが言及するのは、創造とノアの洪水だけです。さらに、イェシュアは「しかし、創造の初めから、神は人を...造られた」(マルコ10:6)と語っておられます。イェシュアがここで指しておられるのは、1節の「初め」(ベレシート)のことです。

したがって、イザヤ書34章およびエレミヤ書4章に見られる裁きの描写を根拠として、被造物であるサタンの堕落を創世記1章1節と2節の間に無理に読み込む解釈は、創世記1章31節の「見よ、それは非常に良かった」という神ご自身の評価と矛盾するだけでなく、釈義的にも正当化できません。このような挿入は、聖書解釈における典型的な「eisegesis(自己都合の読み込み)」の例だと言えるでしょう。

5 どのような裁きか?

回復理論によると、何らかの形で、サタンの裁きが1節で完全に創造された地球に下されたということになります。これにより、全世界が呪いの下に置かれました。その結果、地球は形がなく、混沌な状態となり、深淵の面に闇が覆いました。回復理論の支持者たちは、闇と深淵を霊的な意味で解釈する傾向があります。実際、聖書では闇は悪の象徴として描かれています。例えば、エペソ人への手紙6:12のようにです。

しかし、1日目の闇は創造されたものであり、光が全く存在しない状態として理解されます。また、創世記1:2の闇は物理的なものです。創造の文脈では、創世記1:2の闇は、神が「光よ、現れよ」と言われる前の、光が最初に存在しなかった状態に過ぎません。

ヨブ記38:4-7から、天使たちは地球より前に創造されたと推測できます。時間が始まるはるか前に、神はすでに天使たちを創造しておられました。彼らは永遠に存在するよう創造されました。聖書はまた、彼らが「神の息子たち」であると言っています。神が地球を創造したとき、「明けの星たちは共に歌い、神の息子たちは皆、喜びの声をあげた。」(ヨブ記38:7)。

イザヤ書14:12-15とエゼキエル書28:11-19には、ルシファーが堕落してサタンとなったことへのほのめかしが見られます。 それでも聖書は、天使だったルシファーがいつサタンになったのかを直接的には教えてくれません。

聖書のさまざまな箇所から推測すると、サタンの反逆は六日間の創造の後で起こったと考えられます。なぜなら、神は6日目に「天と地、またすべての万物を造り終えて、『見よ、それは非常に良かった』」(創世記1:31)と宣言されたからです。天使を含め、すべてのものは完全な状態で創造されており、悪魔的なサタンが六日間の創造の終わりに「非常に良い」と評価されることはあり得ません。つまり、サタンの反逆は6日目の後に行われたのです。

実際、サタンは天使の3分の1を自分に従わせることに成功しました(ヨハネの黙示録12:3-4)。また、彼はアダムとエバをも自分の側に引き込もうとしました。あるいは、アダムが堕落した後にサタンが天使の3分の1を勧誘した可能性もあります。いずれにせよ、サタンの堕落はアダムが罪を犯すより前でなければなりません。それは、アダムとエバが禁断の木の実を食べる前の数日であった可能性があります。

言い換えれば、サタンの反逆という「劇的な出来事」が起こる時間は十分にあったということです。たとえ「トーフー ヴボーフー」を「混沌かつ空虚」と解釈したとしても、無理に創世記1章1節と2節の間に「サタンの反逆」を押し込み、「重大な裁きがあったから、地球か呪われた」と主張する必要はありません。

6 ルシファーの反逆に対する裁きか?

回復理論の支持者たちが主張の根拠とする、イザヤ書とエゼキエル書の二つの箇所を検討してみましょう。

イザヤ書14章には、イスラエル人が「バビロンの王に対するあざけりの歌」を歌うという預言が記されています。聖書の多くの箇所で、バビロンは常にサタンとその悪霊たちの悪と結びつけられてきました。バビロニア人はソロモンが建てた神殿を破壊し、火を放って焼き尽くし、神殿は姿を消しました。彼らは残酷にもユダの南王国を蹂躙し、紀元前586年にそれを滅ぼしました。

イザヤ書14章12-15節は、3節から23節までの エピソードに属しています。この箇所は、文字通りに読むと、まず第一にバビロンについてのものです。イザヤ書14章13-15節から、バビロンの王はその心の中で極めて傲慢にこう言ったと考えられます。

私は天に上り、私の王座を神の星々の上に高く据え、
北の奥の集会の山に座し、
雲の頂を越えて上り、
いと高き方に自分を等しくする。
今日も多くの傲慢な人々は、自分が神よりも優れていると思っています。私たち全員が、いと高き方に自分を等しくしようと願うものです。したがって、この詩的な描写は、通常の読み方では、傲慢なバビロンの王について述べているのではありますか。

したがって、残るのは12節のみであり、これは比喩表現である可能性が高いと言えます。諸国を征服した高慢なバビロンの王、「明けの明星、暁の子」は、天の高みから地に落とされ、切り倒されました。これは、バビロンの王に向けられた嘲弄(あざけり)として意図されたものです。

もっとも、比喩的な次元において、「明けの明星」をルシファーと解釈すること自体が誤りであるとは言えません。キリスト教徒は、ルシファーがサタンとなり、黙示録において永遠の厳しい裁きを受ける存在であると推論してきました。

しかしながら、イザヤ書14章の文脈には、いわゆる「回復説(restitution theory)」が想定するような裁きへの言及は一切ありません。サタンに対する将来の裁きを、創世記1章の創造ナラティブにおけるとされる仮定上の裁きと結びつけることは、釈義的に成立しません。

そもそも、ルシファーがサタンになったからといって、なぜ地が滅ぼされなければならないのでしょうか。ここでしばしば持ち出されるのがエゼキエル書28章です。回復説の支持者たちは、サタンがかつてエデンに住んでいたと主張します(エゼキエル28:13)。彼らの解釈によれば、そのエデンはアダムのエデンとは別のものであり、創世記1章1節で創造された完全な地上に存在していた「神の園」だったとされます。しかし、その地は創世記1章2節において、「トーフー ヴァボーフー」(荒廃した状態)になった、というのです。

しかし、エゼキエル書28章は、本質的にはツロの王に対する痛烈な哀歌(風刺的な嘆き)です。彼はダニエルよりも賢いとされ、極めて富裕でした(28:2–5)。非常に裕福で、知恵と権力を備えた人物は、容易に高慢になり、「私は神である」とさえ考えるようになります(28:1)。ここで言及されるエデン(28:13)は、比喩表現、あるいは誇張である可能性があります。おそらくエゼキエルは、神がアダムのために設けたエデンの園を念頭に置いていたのでしょう。莫大な富があれば、王が壮麗で豪奢な庭園を築くことも十分に可能です。では、アダムのエデン以前に存在した「第一のエデン」を想定する、聖書的根拠が果たしてあるでしょうか。

とはいえ、比喩的な次元において、この箇所をサタンと関連づけること自体は妥当です。彼は「全き完全の型」であり、知恵に満ち、美の極致にありました(28:12)。彼は創造され、貴重な宝石が彼のために備えられていました。さらに、サタンは「油注がれた者」と呼ばれていますが、ここで用いられているヘブライ語 מִמְשָׁח (ミムシャフ)の正確な意味は不明瞭です。この語は聖書中ここに一度しか出現しません。 それでも、彼が כְּרוּב (ケルーヴ)である以上、サタンが天使的存在であることは確かですが、それは邪悪な存在としての天使です(28:14)。

創世記3章は、サタンが実際にアダムのエデンの園にいたことを明確に語っており、エゼキエルもその事実を反映しています。聖書本文を通常の、素直な読み方で読むならば、エデンは一つしか存在しなかったと理解されます。二つのエデンを想定する議論は、明らかに読み込み(エイセジェーシス)に他なりません。

7 結論

回復説(レストレーション理論)は、初めに地が暗い水に覆われた荒廃状態にあった理由を説明しようとする試みです。しかし、神はご自身のシェキナーの栄光が輝くために闇を創造され、「夕があり、朝があった」ように、夜と昼が存在するようにされました。また、水は地とともに創造されたのであり、神は地の気候に不可欠な水循環を最初から意図されていました。モーセもペテロも、太平洋やアトランティスの海を知っていたわけではありませんが、初めに地の全表面が水に覆われていたことについて記しています。

もしサタンに対する裁きが地に混乱をもたらしたのであれば、それは極めて重大な出来事であったはずです。しかし、そのような出来事について、聖書の著者たちは誰一人として言及していません。なぜでしょうか。それは、その出来事が実際には起こらなかったからです。それは読み込み(エイセジェーシス)による想像にすぎません。

最後に、サタンが反逆するための時間は十分にありました。すなわち、創造の第七日から、アダムが罪を犯す前日まです。ヘブライ語の統語構造と文脈を精査するならば、創世記1章1節と2節の間に本当に「空白(ギャップ)」が存在すると言えるでしょうか。回復説は、聖書的根拠を見いだすことが困難な複数の前提を必要とします。そのような理論が、果たして正確な解釈であり得るだろうか。