これは、創世記の第1話に関する二部構成の解説のパートBです。
前章であるパートAでは、神が時間、回転する地球を収めるのに十分な広大な空間、その表面の闇、深水、そして地球を覆うほどの大いなる水を創造されました。創造は聖なる三位一体の業です。それはビッグバンなどではなく、主権と誉れを示す偉大な奇跡でした。
このパートBでは、とても特別な光についてお話しします。ここで私たちは、神の驚くべき力と栄光を目の当たりにします。 神は「光が間もなくある。」と言葉を発せられると、その通りになりました。神はその特別な光を「昼」の目印とし、闇を「夜」の目印とされました。そうして夕べがあり、朝があり、一日と指名されました。
וַיֹּאמֶר אֱלֹהִים
ヴァヨーメル エローヒーム
1:3a 神は仰せられた。
第3節は、第2節からの続きであり、接続詞 וַ ヴァで結ばれています。また、前節にはヘブライ語の段落標識 פ (ペー)がないため、第3節は新しい話題の始まりではありません。むしろ、創造されたばかりの地球の初期状態を記述し、いよいよ次の創造に焦点を当てることを示すのです。
このことから、筆者モーセは第2節と第3節の間に空白を設けることを決して意図していなかったことがわかります。古代ユダヤ人も、その間に大きな隔たりがあるとは決して考えませんでした。さらに、主動詞 וַיֹּאמֶר 「ヴァヨーメル」(仰せられた)は וַיִּקְטֹל (ヴァイークトール)と呼ばれる順次未完了形で、前の動詞とつながり、時間の流れや一連の考えを形成する役割を果たします。ヴァイークトールは、一連の行動を語る際に使われる「叙述進行形」なのです。つまり、出来事が時間順に連鎖していくというわけです。それは聖書ヘブライ語に特有の叙述時制(語形)で、特にナラティブ文体を理解するうえで極めて重要です。
対照的に、創世記1:2の動詞 הָיְתָה (ハーイター)は完了形であり、動作や状態がすでに完了・成立したことを示します。ここでは、地球の状態がすでに存在していた背景状況を記述する状態動詞として機能しています。ナラティブの冒頭や背景説明でよく使われ、時間の連続性ではなく「そのときすでに~の状態であった」という静的な状況を提示するのです。
創世記1~3章にヴァイークトール動詞が数多く登場します。したがって、創世記の他の47章と同じく、創世記1~3章も詩ではなく散文であり、ジャンルは啓示による歴史だと結論づけられるのです。この原語による結論から、現代の詩的な解釈や寓意的な比喩として1章を分類するのは、とんでもない誤りであると言えます。
さて、 「神は仰せられた」という行動は、直前の出来事――天と地の即座の創造――にすぐ続いています。この「即座性」の理由は、全能の神が未完成の世界を創造した後、何十億年も待つということは理にかなわないからです。また、聖霊が水の表面をそんなに信じがり長期間にわたってかぶとむというのも、到底考えられません。これらの点から、間隙理論(ギャップ理論)は強く否定されます。ヘブライ語聖書には、この二つの節の間に何十億年もの年月が挟まるなどという記述は、どこにも見当たりません。 さて、「神は仰せられた」という行為は、直前の出来事――天と地の即時の創造――にすぐ続いています。この「即時性」の理由は、全能の神が未完成の世界を創造した後、何十億年も待つということが理にかなわないからです。また、聖霊が水の表面に長期間とどまり続けていたと考えることも、到底受け入れがたいものです。これらの点から、間隙理論(ギャップ理論)は強く否定されます。ヘブライ語聖書には、この二つの節の間に何十億年もの年月が挟まっていると示唆する記述は、どこにも見当たりません。
יְהִי אוֹר וַיְהִי־אוֹר׃
イェヒー オール ヴァイェヒー・オール
1:3b 「光が間もなくある。」すると光があった。
普通に読めば、神が初めに天と地を創造された直後に、ただちに命令をお発しになったことがわかります。「光が間もなくある。」神は無から創造され、それからお語りになり、地に光をもたらされました。この聖書の創造の特徴は、他のすべての文明の神話とはまったく異なります。六日間の創造は、創世記1章だけでなく、聖書の他の箇所からも私たちに啓示されています。
聖書で神が最初に発せられた言葉は、 יְהִי イェヒーです。この動詞は願望法(jussive)であり、つまり軽い命令のニュアンスを持つ形です。 神は光である אוֹר オールに「存在せよ」「現れよ」と命じられました。イェヒーの語根は הָיָה ハーヤーで、基本形(Qal)では「在る、なる、起こる、存在する、生じる」などの意味があります。 モーセにご自分を紹介された有名な言葉、 אֶהְיֶה אֲשֶׁר אֶהְיֶה エヒイェ アシェル エヒイェ「わたしは有るである」(出エジプト記3:14)でも、エヒイェの語根は同じハーヤーです。神はすべての存在の究極的な存在者――第一原因――でいらっしゃいます。
さて、神はこの最初の場面で、光の源を明かされていません。それは太陽ではありません。聖書の創造の順序では、太陽は第4日に創造されたからです。しかし、詩篇104篇2節に、第1日の光の源に関するヒントがあるかもしれません。
「光を衣のようにまとって天を幕のように張り広げられる。」イザヤ書60章19節には、主ご自身が光の源であると記されています。
「あなたにはもはや昼の光として太陽はなく、輝きを与えるものとして月もない。主があなたの永遠の光となり、あなたの神があなたの栄光となる。」
神ご自身が光であることは、新約聖書でも確認されます。ダマスコへの道で、「天から非常に強い光が突然」パウロの周りを照らしました(使徒言行録22:6、26:13)。さらに黙示録22章5節にはこうあります。
「もはや夜はなく、ともしびの光も太陽の光も必要がない。主なる神が彼らを照らされるからである。彼らは世々限りなく王となる。」ユダヤ人の考えでは、この光は神の栄光であるシェヒーナー( שְׁכִינָה )と共にあるものです。ヘブライ語の「シェヒーナー」とは、主の聖なる臨在を意味します。その臨在は、闇の中で輝く超自然的な光を与えます。
したがって、初めに神はご自分の創造物に「近づかれた」のです。神聖な栄光を光として輝かせられました。それは、ちょうど主なる神がご自分で創造された天と地への神聖な訪れでした。シェヒーナーの栄光は、私たち人間にはあまりにも畏れ多く、強大すぎて、直接その前に立つことなど到底できません。
次に、小節 וַיְהִי־אוֹר ヴァイヒー・オールは「そして光があった」と示す陳述形です。これは神の命令の結果です。動詞「そして~があった」の וַיְהִי ヴァイヒーは、「そして仰せられた」の וַיֹּאמֶר ヴァヨーメルと同じヴァイークトール形です。
神がお語りになると、奇跡が起こりました。量子物理学で光は光子の束、つまりエネルギーのパケットです。ここに、神が創造物にエネルギーを注ぎ込まれる様子が見えます。エネルギー・物質保存の法則は、まだ働いていなかったのです。
וַיַּרְא אֱלֹהִים אֶת־הָאוֹר כִּי־טוֹב
ヴァヤル エロヒーム エト・ハーオール キー・トーヴ
1:4a 神は光を見て、それが良いと見られた。
直訳では「神は光を見られて、それが良い[であった。]」という意味です。 最初の単語 וַיַּרְא (ヴァヤル、「見られた」)は再びヴァイークトール連続形です。つまり、神が「光が間もなくある。」と言われた後、神はご自身のシェキナの栄光の光について評価を下されました。それは神の目には良いものでした。
最も素朴で本文に忠実な理解は、神が最初に創造した物理的な光そのものだとする見方です。 太陽・月・星は第4日に造られるため(1:14–19)、この光はそれら天体に由来しない、被造世界に初めて与えられた光と理解されます。
文脈上重要なのは、この光が「神の言葉」によって即座に生じている点であり、創造の主導権が完全に神にあることを明確に示している、ということです。
וַיַּבְדֵּל אֱלֹהִים בֵּין הָאוֹר וּבֵין הַחֹשֶׁךְ׃
ヴァヤヴデール エロヒーム ベイン ハーオール ウーベイン ハホーシェフ
それで、光と闇の間に区切りを生じさせた。
動詞 וַיַּבְדֵּל ヴァヤヴデール は、 根動詞「 בָּדַל 」バーダルの使役形(ヒフイル茎)で、「分ける」「分離する」という意味です。 このヘブライ語の文節の意味を、「神が光と闇の間に区切りを生じさせた」と理解することもできます。
この区切りについてのさらなる理解は、ヨブ記26章10節から得られます。
חֹק־חָג עַל־פְּנֵי־מַיִם עַד־תַּכְלִית אֹור עִם־חֹשֶׁךְ׃
ホク・ハーグ アル・プネー・マイム アド・タクリート オール イム・ホーシェク
彼は水の面に円を描き、光と闇の境まで定められた。
ここでは、宇宙空間から見た視点で、照らされた水の円と闇との境界が見えます。この記述に近いNASAの画像が図3.1です。今のところ、この写真の雲や陸地は無視してください。明らかに、地球の表面から反射した光と周囲の空間の闇との分離がはっきりと見えます。
『創世記1章の失われた世界』の著者であるウォルトンは、創世記1章を現代の科学的視点から強引に読み解こうとする、いわゆる「調和主義」を避ける姿勢を取っています。この点については賛同しますが、図3.1はちょうど聖書の記述と一致していると考えられます。
さて、ウォルトンの言う古代近東の「認知環境」に基づいて創世記1章を「古代の宇宙論」として読むことが、信仰と科学の対立を緩和するうえで有益であるという主張には反対です。彼の核心的主張は、創世記1章が物質的な起源ではなく、機能的な起源を描いているというものです。つまり、古代近東の人々にとって「創造」とは、物事が物質的に作られることではなく、神が宇宙に秩序と役割を与え、それを神の神殿として機能させるプロセスを意味するという解釈になります。
しかし、この現代解釈にはいくつかの深刻な問題点があります。まず、ウォルトンが機能的な起源と物質的な起源を厳格に分離する点は、やや強引に思えます。確かに古代近東の文脈では機能が重視されていましたが、創世記1章の記述は、機能だけでなく物質的な側面も含意しているのではないでしょうか。ウォルトンはこれを否定しますが、そのための十分な肯定的証拠を示しているとは言えません。その結果、伝統的な「無からの創造」を創世記1章が直接教えていないとする主張は、聖書の他の箇所(例えば詩篇や新約聖書)との整合性を損ないます。さらに、ウォルトンの解釈は、聖書の歴史性を弱め、大進化論への譲歩につながるのではないでしょうか。
教会史を通じて、創世記1章は物質的な創造を語るものとして理解されてきました。しかし、古代近東との類似性を過度に強調すると、創世記1章の独自性(一神教的創造、神の超越性)が薄れてしまうという印象を与えます。さらに、機能中心の読みは二元論(物質 vs. 霊的)を導入し、聖書の統合的な世界観を歪めることになりかねません。
聖書学者たちは、業界の性質上、新しい説を打ち出さなければならない宿命にあります。多くの現代聖書学者は、この光を単なる物理現象以上のものとして捉えます。たとえば、光は秩序・善・生命を、闇は無秩序・混沌を表すと理解され、その意味で、光の創造は「神が混沌に秩序を与え始めた最初の行為」を象徴的に表現しています。 この象徴的な理解では、創世記1:1~2に描かれる天地創造が、無秩序・混沌であったかのような含意を生じさせてしまいます。 しかし、他の聖書箇所から分かるように、創造された地は、明確な球体という形を取っており、決して無秩序や混沌の状態にあったわけではありません。
וַיִּקְרָא אֱלֹהִים לָאוֹר יוֹם וְלַחֹשֶׁךְ קָרָא לָיְלָה׃
ヴァイックラー エローヒーム ラオール ヨーム ヴェラホーシェフ カーラー ラーヤーラー
5a 神は光を「昼」と呼び、闇を「夜」と呼ばれた。
直訳的な訳では「そして神は光に『昼』と呼び、闇に『夜』と呼ばれた」となります。これは、前置詞 ל ラメドが「光」 אוֹר オールと「闇」 חֹשֶׁךְ ホーシェフの両方に付いており、これを「~に」あるいは「~へ」と訳したものです。
この節の最初の動詞 וַיִּקְרָא ヴァイィクラーも 順次未完了形(ヴァイークトール)です。 右から6番目の単語であるこの文節の二番目の動詞 קָרָא カーラーは、語根形(基本辞書形)で、完了態の基本形です。 ヴァイィクラーはカーラーに由来します。
動詞カーラーの基本的な意味は「呼ぶ、名付ける、読む、叫ぶ、宣言する」などですが、ここでの文脈は、光を「昼」と名付け、闇を「夜」と名付けるという「命名」の行為に近いものです。ユダヤ人の考え方では、何かに名前を付けることは、そのものに対する所有権を主張することでもありました。
図3.1にあるように、シェヒーナーの光が当たっている地球の面が昼となり、光が当たっていない反対側が夜となります。地球の自転によって、昼と夜は規則正しい時間のサイクルを生み出します。これは、神がすべての人々に等しく与えてくださる一般的な恵みです。このサイクルは私たちが変えられるものではありません。地球の自転の方向も速度も、私たちはコントロールできません。まことに、昼も夜も主のものです。
しかし、神が昼と夜をご自分のものと名付けられたからこそ、神は必要に応じて地球の自転を変えて昼の時間を延ばすことがおできになります(ヨシュア記10章)。さらには、ヒゼキヤ王の願いに応じて時間を逆行させることさえなさいました(列王記下20:8-11、イザヤ書38:7-8)。このような奇跡は、神が全能の創造主であられるからこそ可能なのです。聖書の神は、ご自分が定められた被造物や自然法則、そして時間をも超えておられます。主にとって不可能なことが何かあるでしょうか(創世記18:14)。神は、ご自分の定めた法則に例外を設けることをご存知なのです。
וַיְהִי־עֶרֶב וַיְהִי־בֹקֶר יוֹם אֶחָד׃ פ
ヴァイェヒー・エレヴ ヴァイェヒー・ボーケル ヨーム エハード
5b 夕となり、朝となった。一日。
5節の終わりに פ 「ペー」 の記号が見られます。これでエピソード1の終わりです。この時点で、シェヒーナーのの光と地球の自転により、地球上のほとんどの場所で夕と朝が交互に訪れるようになります。夕が先に言及され、創造が闇から始まったことから、ユダヤ人の考えでは一日は夕方から始まるとされています。夜を過ぎて朝が来て、一日が続き、次の夕方でまた新しい一日が始まる、というサイクルです。これが神が定めた一日の定義です。
実際、最後の二つの言葉「ヨーム エハード」は文字通り「一つの日」あるいは「まる一日」と訳されます。「最初の日」は、あくまでも解釈です。二日目、三日目以降とは異なり、この最初のエピソードで「一つの日」という特別な表現を使っているのは、一日の本質を強く強調するためです。夕となり、朝となった——これが定義として一日のすべてです。
神の一日の定義を大切に考えるなら、一日は地球の通常の自転、つまり24時間で決まるということになります。一日の定義を軽く見るクリスチャンたちは、創世記1章の「一日」を数百万年、数億年の長い時代だと主張します。文法、語彙、文脈を考えて、ここの「ヨーム」は、普通われわれが経験する24時間のことではありませんか。それも、作者の意図ではありませんか。
創世記1章の六日間の創造を、夕と朝が繰り返し述べられている点を読み進めると、各日の長さが同じであることがわかります。もし地球が45億年という年齢なら、日齢説(day-age theory)では六日のそれぞれが7億5千万年ずつになるはずです。しかし、この解釈は正しいでしょうか?
一日の長さが7億5千万年だとしたら、文字通りには地球の自転速度が極端に遅いということになり、ほとんど回転しているのが検知できないレベルです。それに、三日目に創造された植物が、夜の時間だけで3億7千5百万年も生き延びられるでしょうか?
このような不可能を避けるために、一日を長い期間の象徴として解釈しようとする人もいます。そうすると、各期間は何十億もの24時間の日から成ることになります。しかし、この象徴的な解釈は、神ご自身が申命記20章11節で証言された言葉と明らかに矛盾します。
「主は六日のうちに、天と地と海、またそれらの中にあるすべてのものを造り、七日目に休まれたからである。」
この証言は十戒の一部です。神が六日間「働き」、安息日に「休まれた」のと同じように、イスラエル人にもそうするよう命じられたのです。主ご自身がこの律法を石の板に書かれました(申命記10:4)。したがって、神によると創造の日は象徴的なものではなく、文字通りの24時間です。
モーセは神が書かれたことを完璧に理解していました。指導者として、モーセは神の安息日の律法をイスラエル人に厳しく守らせました。安息日にはマナを集めないよう命じ、安息日の前日に二日分を集めるよう指示したのです。二日分であって、二億日分ではありません。
日齢説を正当化しようとする一部の漸進的創造論者は、七日目には夕と朝の記述がないので長い期間だと主張します。それにより、創造の週全体が数百万年や数十億年になるというのです。つまり、日齢説の支持者たちはモーセを通した神の言葉を強く拒否していることになります。
なぜクリスチャンたちはモーセの言葉に耳を傾けないのでしょうか?イエスはヨハネ5章でこう言われました。
「互いに誉れを受け、ただひとりの神から来る誉れを求めようとしないあなたがたは、どうして信じることができようか。……モーセを信じているならば、わたしをも信じたはずである。彼はわたしについて書いているからである。しかし、彼の書いたものを信じないならば、どうしてわたしのことばを信じることができようか。」
イェシュアやモーセを信じもしないで、大進化論者たちに認められようとするなんて、そんなことで本当に信仰者と言えるんですか?
科学者たち自身が、ビッグバン模型の大きな問題点を認めていることをご存知ですか?彼らが宇宙の起源についての最良の模型を支えるために使っているデータが、逆にその模型を崩すものにもなっているのです。具体的に、進化論の大家たちは前提Aから模型を構築しましたが、同じデータがAと一致しないのです。
壊れた大進化論に合わせるために、神のことばを破る価値があるでしょうか?
私たちの分析から、以下のような訳が適切であると考えられます:
初めに、神は天と地を創造された。 地はまだ見えず、未完成の姿で、深き淵の面に闇が覆い被さり、神の霊が水の面の上を静かに動いておられた。 そこで神は仰せられた。「光よ、現れよ。」 たちまち光が生まれた。 神はその光をご覧になり、「良し」と認められた。 神は光と闇の間に空間を分け隔てられた。 光を神は「昼」と名づけ、闇を「夜」と呼ばれた。 こうして夕が訪れ、朝が来た――一つの日。
一般的な訳と大きく異なるのは、最初に創造された地を「空しく形なく」とは捉えない点です。 空虚ではなかった——地球全体を覆い尽くすほどの豊かな水が満ちていたからです。 形がなかったわけでもない――聖書の他の箇所が語るように、地はすでに美しい球体であったからです。 見えなかったのはただ闇の衣をまとっていたからであり、 未完成だったのは、まだ大気がなく、息づく命も生まれていなかったからです。
この解釈は、創世記2章1-2節の「すべてが完成した」という言葉と見事に調和します。 一日の始まりには地は未完成のままだったが、 六日の終わりに至って、すべての創造の業は完全に成し遂げられたのです。
神はまた、「一日」とは何かをご自身の言葉で定められた。 神のシェヒーナーの栄光の光によって、地球に夜と昼が生まれ、 神の霊が地を穏やかに、確かに回転させ始めたことで、 夕と朝が優しく交替するようになったのです。 この文脈で「ヨーム」(日)を最も自然に読み解くなら、 モーセがすでに教えてくれた通り――それはまさに24時間の一日です。