世界の一日パートA: はじめのはじめ 

1 序論

これは、創世記の第1章に関する二部構成の解説のパートAです。聖書の最初のブロック(エピソード)は、時間・空間・天・地・水・闇と光・昼と夜、そして「夕があり、朝があった」という一日というものの起源を語っています。まるで「一日とは何か」を数学的に定義しているような味わいがあります。

2 聖書の最初の言葉

בְּ רֵאשִׁית
ベレシート

ヘブライ語聖書では、聖書全体の最初の文字が大きく書かれています。 それは ב (ベート) という文字で、英語の「b」に相当します。古代ギリシャ語訳(七十人訳)では ἐν ἀρχῇ(エン アルケー)=「初めに」と訳されており、ユダヤ人の解釈では、 この בְּ は前置詞として機能し「~において(in)」という意味になると考えられています。

第1節は「宇宙には始まりがある」と宣言しています。アインシュタインをはじめとする多くの人は、かつて宇宙は永遠であって始まりも終わりもないと考えていました。一方、ビッグバン理論は数学モデルによって「今から遡ると始まりがあった」と推定しますが、それでも「時間そのものが最初から存在していた」と前提しています。これに対し、ベレシートは「永遠の中におられる、時間を持たない神が、時間そのものを創造された」という全く異なる次元の「初め」を語っているのです。

ちなみに、聖書の最後の言葉はギリシャ語では πάντων「パントーン(すべての人の)」あるいは 「アーメン」ἀμήν ですが、 ヘブライ語聖書全体の最初の文字 ב (ベート)と最後の文字 ν = ן (ヌン)を組み合わせると בֵּן (ベン)=「子(息子)」という単語になります。 偶然かもしれませんが、聖書全体は最初から最後まで「神の子」について語っていると言えるでしょう。

ユダヤ教(ラビ文献)の伝統では、この大きく書かれた ב (ベート) は神の属性である חֶסֶד 「ヘセド(慈しみ・愛の恵み)」を象徴するとされています。つまり、創造とは神のヘセドがあふれ出た結果だと考えられているのです。このことは、六日間の創造が終わり、神が「見よ、それは非常に良かった」と評価されたこととも完全に一致します(創世記1:31)。

最初の名詞である רֵאשִׁית (レーシート)は「初め」「最初」「最良のもの」「首位」などの意味を持ちます。ここでは「初め」と訳すのが適切ですが、同時に「最上のもの」「最高のもの」というニュアンスも含まれています。神が永遠の中で計画されたすべての業の中で、創造こそが「最高・最重要」の業であったということです。

ギリシャ語で「初め」を意味する言葉は ἀρχή (アルケー) です。興味深いことに、黙示録3:14でイェシュア (יֵשׁוּעַ) ご自身が「わたしは神の創造の初めである」と語っておられます。一部の人々はこの言葉を「イェシュア (יֵשׁוּעַ) は被造物である」という根拠にしますが、それは誤った解釈です。イェシュア (יֵשׁוּעַ) はこの言葉によって「すべてのものを創造したのは私であるから、すべては私の所有物である」と宣言しておられるのです。黙示録22:13でも「わたしはアルファであり、オメガである。最初の者であり、最後の者であり、初めであり、終わりである」と語っておられます。

イェシュア (יֵשׁוּעַ) は「最初の創造」の創造者であると同時に、「新しい創造」の創造者でもあります。したがって、創造の究極の科学者・エンジニアであるイェシュア (יֵשׁוּעַ) こそが、万物の真の所有者なのです。ダビデによる詩篇にも、次のような記述があります。

地とそこに満ちているもの世界とその中に住んでいるものそれは【主】のもの。(詩篇24:1、新改訳2017)

3 創世記1:1a 始めに神は創造された

בְּ רֵאשִׁית בָּרָא אֱלֹהִים
ベレーシート バーラー エロヒーム
始めに神は創造された

1節の2番目の単語は בָּרָא (バーラー)です。ヘブライ語では通常、動詞が主語より先に来ます。これは英語とはちょうど逆の語順です。また、ヘブライ語は右から左へ読みます。

この「バーラー」(創造した)の形は、3人称・男性・単数です。つまり、この行為の主語は「彼」「彼女」「それ」、あるいは単数の名詞であるはずです。ところが驚くことに、「バーラー」の主語である「エロヒーム」(神)は、形態的には複数形の名詞です。普通の文法ならこれはミスです。でも聖書の壮大な最初の節において、これは間違いではありません。

神学者たちはこの異常を説明するために「威厳の複数(plural of majesty)」という概念を提唱してきました。つまり、無から創造できるのは、三位一体の唯一の神だけだという意味です。聖書の中で「バーラー」(無からの創造)という動詞は、神だけに独占的に使われます。他の誰にもできません。

聖書においては、「エロヒーム」(神)の存在は根本的な現実として前提されており、議論も証明も弁護も必要ありません。

私たちはよく「画家が絵を創った」と言いますが、画家には絵の具・キャンバス・筆などが必要です。それらは空から降ってくるわけではありません。結局のところ、原子レベルで見れば、私たちが「創る」ものは、すでに存在していたものから作っているにすぎません。無から何かを生み出すことは、人間にはできません。これはエネルギー・物質保存の法則ともつながります。

ところが「初めに」、神はこの法則を停止させました。神のことばによって、時間・エネルギー・物質は、永遠と無限の中から突如として現れました。これはまさに超自然的な出来事です。地球もまた、何もないところから突然に存在するようになったのです。

これに対してビッグバン進化論(大進化)は、巨大衝突や衝突の連続、赤く溶けた溶岩に覆われた「原始地球」などを前提とします。しかし、それらのどれ一つとして観察できません。観察できない「科学」なのです。

神は無からすべてを創造されました。ところが一部の宇宙学者は「無が勝手にすべてを生んだ」「究極のタダ飯だ」と主張します。これは科学的ではありません。理由は二つあります。

第一に、その「タダ飯」は再現できません。どの宇宙学者も同じタダ飯を繰り返し実験・再現することはできません。再現可能性がない時点で、それはもう科学ではなく、哲学的主張にすぎません。

第二に、宇宙の起源は人間が直接観察し得るものではありません。ビッグバンの瞬間を記録した者は、いまだかつて存在しません。現代において得られる観測データは、必ず解釈を伴います。ビッグバン理論もまた、その解釈の一つにすぎず、同一のデータに対して他の解釈が成立する可能性も残されています。

それでも、ビッグバン理論が神の創造と矛盾しているにもかかわらず、それに満足しているクリスチャンがいます。中には「神が最初にビッグバンをバン!とやったんだ」と言う人もいます。でも、もし神がビッグバンを起こしたのだとしたら、神は自然法則に縛られ、何十億年も前にバンを起こし、何十億年も待ってからやっと地球の材料ができあがるのを待たなければなりません。そんな神は、聖書の主権的で超越的なエロヒムではありません。

それに、ビッグバン模型自体、観測データと矛盾する点が山ほどあります。後から付け加えた「暗黒物質」「暗黒エネルギー」でもまだ足りず、光速をはるかに超える空間のインフレーションも観測されたことはありません。

クリスチャンが、神の創造を捨てて、神のいない信じがたい大進化モデルを受け入れる理由はどこにあるのでしょうか。

4 創世記1:1b 天と地を

אֵת הַשָּׁמַיִם וְאֵת הָאָרֶץ׃
エート ハッシャマイム ウェエート ハアレツ
天と地を

初めに、神の創造には天(הַשָּׁמַיִם ハシャマイム)と地( הָאָרֶץ ハアレツ )が含まれます。 これら二つの語の前に付いている文字( ה )は、英語の定冠詞 the に相当します。

この句は、ヘブライ語においては四つの単語から構成されています。しかし、英語訳では「天」と「地」のみが表現されています。そこには、翻訳に伴う意味の損失がありします。目的語を示す標識である (אֵת エート) は、英語では訳されず、省略されています。日本語においては、これを助詞「を」によって表すことが可能です。

さらに (וְאֵת ウェエート) は、目的語標識(אֵת エート)に接続詞の (וְ ウェ) が前接した形であり、通常は「and」と訳されます。したがって、翻訳の過程で失われているのは、目的語標識そのものにほかなりません。

さて、目的語標識であるאֵת ( エート) は、 א (アレフ)とת (タヴ)という二文字によって構成されています。これらは、それぞれヘブライ語アルファベットの初めと終わりを示す文字です。したがって、英語における AとZ、またギリシャ語におけるアルファとオメガに相当します。 ここで、イェシュア(יֵשׁוּעַ)がご自身についてこう言われたことを思い出してください。「わたしはアルファであり、オメガである」(黙示録1:8、21:6、22:13)。こうして、ヘブライ語聖書の創造の箇所に、再びイェシュア(יֵשׁוּעַ)が暗示さ れています。

次に、「天」(シャマイム)は複数形です。これは天が一つではなく複数あることを示唆しています。パウロは、ある人が第三の天、すなわち楽園にまで引き上げられたと証言しています(第二コリント12章2–4節)。この証言は、少なくとも三つの天の存在を示唆しています。

ゆえに、「初めに、神は天と地を創造された」と理解されます。この創造の描写は、ビッグバン理論の叙述とは本質的に異なります。ビッグバン理論においては、地球はビッグバンから約90億年を経て自然的過程の中で形成されたとされます。ここには、時間的に見て約90億年の隔たりがあります。

さらに、聖書の第一節に基づけば、初めの空間は少なくとも地球を包含し得る広がりを備えていました。これに対し、ビッグバン模型においては、初期宇宙は陽子よりもはるかに小さい状態にあったと考えられています。したがって、体積の観点から見れば、両者の間には約10の60乗倍にも及ぶ隔たりがあるのです

一部のキリスト信仰弁証家は、ビッグバンが「始まり」を有する点に着目し、これを聖書の創造と結びつけようと試みます。それは、かつて広く信奉されていた永遠宇宙論とは確かに異なる見解です。しかしながら、時間と空間におけるこれらの重大な不整合を看過したまま、聖書の「初め」をビッグバンの「始まり」と同一視することには無理があります。聖書の神は時間に拘束される存在ではありません。神は遍在し、かつ永遠なるお方です。

ビッグバン模型は、聖書の創造とは本質的に相容れません。神は自然法則に縛られることなく、ご自分の意志どおりにすべてのことをなさいます。地球は「初め」に創造されたのか、あるいは「始まり」から九十億年を経て創造されたのか、そのいずれかでなければなりません。同様に、空間の体積もまた、地球を十分に包含する大きさであったのか、それとも芥子種よりもはるかに小さいものであったのか、そのいずれかです。これら二つを同時に主張することはできません。

5 創世記1:2a 地球の最初状態

וְהָאָרֶץ הָיְתָה תֹהוּ וָבֹהוּ
ヴェハアーレツ ハーヤター トーフー ヴァヴォーフー
地は、トーフー ヴァヴォーフーであり、

この2節の冒頭部分は、ほとんどの英語訳聖書において「And the earth was formless and empty」(そして地は形なく空であった)と訳されています。ここで、第二節を始める「フック」として機能する ו (ヴァヴ)に注目する必要があります。この語は第一節と強固な連関を形成しており、通常これを「and」(そして)と訳出します。 この接続詞 ו (ヴァヴ)の訳出については、以下のように根拠づけることができます。

まず注目すべきは、第二節において通常のヘブライ語とは逆転した語順が採用されている点です。本節では、主語である「地」が文頭に配置されており、これは標準的なヘブライ語文法とは異なる構造です。この配置は、著者が第一節に続いて直ちに地の初期状態へ視点を集中させていることを示しています。 続く第二語 「 הָיְתָה (ハーヤター)」は 動詞であり、日本語訳では主語「地は」に続く述語として訳出されますが、日本語の助詞「は」に直接対応するものではありません。この語は、「〜であった」または「〜になった」を意味します。

次に、 「 הָאָרֶץ׃ וְהָאָרֶץ 」 (ハアーレツ: ヴェハアーレツ) は「……地(第一節の終わり)。そして地(第二節の冒頭)……」と訳されます。第一節の目的語が即座に第二節の主語となっているのです。ユダヤ人の思考においては、並べて置かれた「ハーアーレツ」から、これらが同一の地を指していることが明らかです。文法的にも意味的にも、原文のヘブライ語聖書では第一節と第二節の間に隙間はありません。

さて、地は 「 תֹהוּ וָבֹהוּ 」 (トーフー ヴァヴォーフー)という状態にあると描写されています。この二つのまれな言葉、トーフーとヴォーフーはどちらも名詞です。聖書の中でこの二語がトーフー ヴァヴォーフーとして一緒に現れるのは、エレミヤ書4章23節だけです。七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)では、これが次のように訳されています。

ἐπέβλεψα ἐπὶ τὴν γῆν καὶ ἰδοὺ οὐθέν καὶ εἰς τὸν οὐρανόν καὶ οὐκ ἦν τὰ φῶτα αὐτοῦ
エペブレプサ エピ テン ゲーン カイ イドゥー ウーセン カイ エイス トン ウーラノン カイ ウーク エーン タ フォータ アウトゥー
私は地を見た。見よ、何もなかった。空を見上げると、そこにはその光すらなかった。

エレミヤは間違いなく創世記を読んでいたでしょう。預言者は、創世記の初期の地が真っ暗闇に包まれていたイメージを用いて、南ユダ王国に対する迫り来る審判を描写しています。バビロンによる侵攻の結果、王国はもはや存在しなくなるのです。そのため、古代のユダヤ人訳者たちは、エレミヤの「トーフー ヴァヴォーフー」を「何もなかった」([it was] not)と解釈しました。彼らはこの表現を「荒廃した」「荒れ果てた」「混沌とした」などとは訳さなかったのです。

驚くべきことに、ヨブ記26章7節にはこうあります。

נֹטֶה צָפוֹן עַל־תֹּהוּ תֹּלֶה אֶרֶץ עַל־בְּלִי־מָה׃
ノテ ツァフォン アル・トーフー トレ アレツ アル・ベリー・マー
彼は北を虚無の上に広げ、地を何もないところに吊るされる。

これは創造に関するもう一つの素晴らしい詳細です。ヨブが友人の一人(ビルダド)に対して答える中で、右から4番目の言葉が 「 תֹּהוּ (トーフー) であり、これは創世記と同じトーフーです。 ここでは「形のない状態」ではなく、「虚無」や「空虚な空間」と訳されています。また、「荒廃した」「荒れ果てた」「混沌とした」などとは訳さなかったのです。このように、この珍しい語は、文脈によって複数の意味を持ち得ることがわかります。

特に興味深いのは、七十人訳聖書(セプトゥアギンタ)が創世記1章の「トーフー 」を ἀόρατος(アオラトス、「見えない」「不可視の」という意味)と訳している点です。 また「ヴォーフー」は ἀκατασκεύαστος(アカタスケウアストス、「未完成の」「仕上げられていない」という意味)と訳されています。したがって、この句全体を「そして地は見えず、未完成であった」と解釈することも可能です。 最初に創造された地は、決して「混沌とした」状態ではなかったのです。

さらに、ヨブ記には、神が地を「何もないところに吊るされる」と記されています。多くの宇宙の図像が大きく誤っているのとは対照的に、地を固定するために物理的な柱など必要ないのです。ヨブは地が虚無の中に吊るされていると描写しており、それを支えるものは何も必要ありません。このことこそが、まさにトーフー ヴァヴォーフーの本当の意味である可能性が高いでしょう。すなわち、地球の全体が暗闇の中で虚無に浮かんでいた状態を表しているのであって、混沌、無秩序、荒廃、廃墟といった意味ではないのです。

「トーフー ヴァヴォーフー」を「見えず、未完成であった」と解釈することは、初期の地の形状を描写する他の聖句とも調和します。ゆえに、「形なく空であった」あるいは「荒廃と空虚であった」という訳ではなお不十分と言わざるを得ません。なぜなら、それでは、神がその混沌としたとされる地をいつ、どのようにして球形に形成されたのかという疑問が残されてしまうからです。

6 創世記1:2b 暗闇と深い水

וְחֹשֶׁךְ עַל־פְּנֵי תְהוֹם
ヴェホーシェフ アル・プネー テホーム
闇が大水の面の上にあり

ここでも、接続詞の ו(ヴァヴ)が「闇」(ホーシェフ)の接頭辞として現れています。次に、 עַל־פְּנֵי (アル プネー)は「~の上に」「~の表面に」という意味で、聖書の中で頻繁に用いられる慣用表現です。

当初、地には光がなく、ただホーシェフという暗闇とテホームという大水だけがありました。後者の言葉は名詞で、「深淵」「大いなる深み」とも訳されます。詩篇の作者が歌うように、「あなたは地をその基の上に据えられました。 地は とこしえまでも揺るぎません。あなたは 大水で 衣のように地をおおわれました。 水は 山々の上にとどまりました。」(詩篇104:5-6)。したがって、テホームは深海の海溝を指している可能性もあります。

ここで言う「闇」は比喩的でも霊的なものでもありません。私たちが真っ暗な部屋で自分の体さえ見えないような、実際に体験できる「闇」です。 詩篇104章20節にはこう記されています。 「あなたが闇をもたらされると 夜になり あらゆる森の獣が這い回ります。」また、詩篇18章11節は 「主は闇を隠れ家とし 水の暗闇 濃い雲を ご自分の周りで仮庵とされた。」と書かれています。 このように、暗闇も創造の一部であったことがわかります。初めに、創造されたばかりの地は見えず、したがって「何もなかった」(エレミヤ書4:23)状態だったのです。

しかし、進化論の大きな枠組みでは、地は太陽が生まれた後、そして天の川銀河のすべての星が生まれた後に形成されたとされています。したがって、光は地が形成されるずっと前からすでに存在しており、地表は赤熱した状態でした。「闇」などではなかったのです。ここでも、歴史的に観察不可能な科学との、もう一つの対立が見られます。

7 創世記1:2c 神の霊

וְרוּחַ אֱלֹהִים מְרַחֶפֶת עַל־פְּנֵי הַמָּיִם׃
ヴェルーアハ エローヒーム メラヘフェト アル・プネー ハマイーム
神の霊が、水の面の上を覆うように動いていた。

明らかに、ここで言う「神の霊」は聖霊です。しかし、いくつかの英語訳聖書では、この複合名詞を「神からの風」と訳しています。この解釈は聖書的ではありません。確かに、ヘブライ語の単独の言葉 רוּחַ (ルーアハ)は「風」や「息」を意味することは事実です。しかし、ヘブライ語聖書全体を通じて、複合名詞としての וְרוּחַ אֱלֹהִים ルーアハ エロヒーム)は一貫して「神の霊」――すなわち聖霊――を意味しています。

また、これは科学的にも成り立ちません。なぜなら、第1の日にはまだ空気も大気も存在していなかったからです。空気がなければ風も吹きません。

次に動詞 מְרַחֶפֶת (メラヘフェト) が登場します。これは「覆いかぶさるように動ていた」あるいは「羽ばたくように覆っていた」と訳されます。この語は根動詞 רָחַף (ラーハフ) の語幹です。この動詞は聖書にわずか3回しか出てきません。いわゆる強意能動形(ピエル態)で、申命記32章11節にも用いられています――「わしがそのひなの上に覆いかぶさるように……」。これにより、第1の日に聖霊が水に覆われた地の上に羽ばたくように覆いかぶさっていたという鮮やかなイメージが与えられます。

わしの親鳥のように、全在なる神の霊は地を安定させつつ、運動を促すように働いておられたのです。聖霊が地に安定した自転軸を与えたと解釈するのは、決して無理な話ではありません。この解釈は、地をバスケットボールのような球体と見なす前提に基づいています。

この前提を聖書から正当化できるでしょうか? はい、できます。やはりヨブ記26章10節にはこうあります。 「彼は水の面に円を描き、光と闇との境とした。」また、箴言8章27節には、「彼が天を堅く据えられたとき、私はそこにいた。彼が深みの面に円を描かれたとき」とあります。この節の最後の三語――ヘブライ語で עַל־פְּנֵי תְהוֹם (アル・ペネイ テホーム)――は、ちょうど創世記1:2節bと同じ言葉です。重要なのは、ヘブライ語の חוּג (フーグ、「円」) が聖書では珍しい言葉であり、球体を意味することもある点です(ゲゼニウス・ヘブライ=カルデア語辞典参照)。

使徒ペテロは、地は水から成り、水によって成ったと語っています(第二ペテロ3:5)。したがって、最初に闇と深みと水が地の全面――すなわち全地球――を覆っていたと推測できます。地球は「形がない」状態などではありません。明確に定義された形状を持っていました。ただ、闇のためにその形状が見えなかったのです。

しかし、観察不可能な科学では、地球の表面はかつて何十億年も前に溶けた溶岩だったとされています。水など存在しませんでした。水は隕石によって後から運ばれたという仮説です。一方、聖書の初めには、神は冷たい水が地表全体を覆う形で地を創造されたのです。ここでも、大進化論との、もう一つの矛盾が見られます。

8 まとめ

最初の二つの節を、次のように訳すことができます。「初めに、神は天と地を創造された。そして地は見えず、未完成であり、闇が深みの面にあり、神の霊が水の面の上に覆いかぶさるように動いておられた。」

この最初の二つの節は、神が「初めに」時間そのものを始められ、天と地を創造されたことを教えてくれます。天の一つは、外宇宙――地が「何もないところに吊るされる」ための空間です。ヨブ記のこの洞察は、創造された直後の地が、それを吊るし、あるいは支えるために何ものも必要としなかったことを明らかにしています。

地は「形がない」状態などではありませんでした。ヨブ記と箴言によると、地は球体の形状を持って創造されたのです。形はあったものの、初めの完全な闇のために見えなかったのです。

創世記は科学の教科書ではありません。しかし、観察可能な科学の領域と交差する部分では、聖書の記述は正確です。この特徴は、神話とは大きく異なります。例えば、神話では、「地は巨大な亀の背中に立つ象に支えられている」といった話が出てきます。

神は、水が地の表面全体を覆う、回転する地を創造されました。水は初めに、地と一体のものとして共に創造されたのです。第2節はまた、地を取り囲む空間(天)があまりにも暗く、一筋の光すら存在しなかったことも教えてくれます。要するに、初めに神は闇と水に没した地を創造されたのです。今日において、地球表面の約70%は依然として水の下にあります。

一つ確かなことは、聖書の最初の二つの節はビッグバンとその後の大規模な進化論とは、決して両立しないということです。神が創造されたのか、されなかったのか――これこそが問題です。これは偽の二者択一ではありません。聖書の創造を、起源に関する観察不可能な科学と調和させようとする試みは、無益であるばかりか危険でもあります。なぜなら、それは神からモーセが受け取った真理を損なうことになるからです。クリスチャンは、大規模進化論の科学者たちの言葉に耳を傾けるべきでしょうか、それとも最高の科学者であるイェシュア(יֵשׁוּעַ)の言葉に聞くべきでしょうか?