創世記1~3章の現代解釈は字義通りですか?

1 はじめに

創世記は聖書の最初の書です。そこには「始まり」の記録が記されています。同じ創世記1章を読んだ二人の人が、三つの異なる解釈を生み出すことがあります。なぜでしょうか。

創造、あるいは万物の起源は過去に起こったことです。誰もその起源を目撃した人はいません。天文学者でさえ、その瞬間を写真に収めた人は一人もいません。私たちが今観察しているものは、すでに「起こってしまった後」のものです。知らず知らずのうちに、誰もが自分の世界観に都合の良いように創世記に「色付け」をしてしまう傾向があります。

2 神義進化論と長日時代説?

数ある創世記1章の解釈の中で、どれが最も正確なのか? この問いかけは、福音の中心メッセージとは直接関係ないように見えるかもしれません。しかし、マルコ10章2~12節の結婚と離婚に関する箇所で、イエスははっきりとこう言われました。

ἀπὸ δὲ ἀρχῆς κτίσεως ἄρσεν καὶ θῆλυ ἐποίησεν αὐτούς
アポ・デ・アルケス・クティセオス・アルセン・カイ・テリュ・エポイエセン・アウトウス
「しかし、創造の始めに、神は人を男と女とに造られた……」

創造主であるイエスご自身が、21世紀の私たちに、創世記を引用しながら、アダムとエバの創造は文字通りの出来事であったと教えておられるのです。最初から「男と女」として造ることは、神のご計画であり、ご意志でした。創世記は、六日間の創造をありのままに記録しています。それは筆者モーセに対する神の直接的な啓示です。

最初のあの人アダムを非文字通りの存在と解釈することは、第二のアダムであるイエス・キリストから当然受けるべき栄光を奪うことになります。

だからこそ、「創造は決して文字通りに受け取るべきものではない」という主張は、神から出たものではありません。イエスは言われました。「わたしが道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。 救い主イエスがアダムとエバを歴史上実在した人物として文字通りに「解釈」されたことが、キリスト教信仰にとって恥ずかしいことだと言えるでしょうか?

「アダムは類人猿から何百万年もかけて進化した」と主張することは、イエスの解釈・教えに真っ向から反します。神義進化論者たちは、聖書の創造という水と、巨大進化論という油を混ぜようとしているのです。

特に注目すべきは出エジプト記31章17~18節です。

「……六日の間に、天と地とを造り、七日目に休んで息をつかれた」。 モーセとシナイ山で語り終えた後、神はご自分の指で書かれた二枚の証しの石板をモーセに与えられました。

神はご自分の「指」で、ご自分の「証し」として、創造週の七日間すべてが文字通りの日であるとモーセに告げられたのです。神ご自身が書かれたものを、私たちは信じることができるでしょうか?

1創世記1章の「日(ヨーム)」を「長い時代」と解釈することは誤りです。それは「神の指」が書かれたものではないからです。文字通りの解釈と言っても、神に私たちのような肉体の指があるという意味ではありません。ただ、創造主ご自身が書かれた(ダニエル5:5参照)──モーセではない──ということです。だから六日は六日なのです。しかし長日時代説の人は、六日は六つの長い期間だと言います。それは神の言葉に対する人の言葉です。どちらが誤っているかは明らかです。

このように、神義進化論も長日時代説も、その主張者たちが実はモーセを本気で信じていないこと、創造主を本気で信じていないことを暴露しています。彼らが本当に信じているのは、神抜きの宇宙起源に関する、歴史的に観察不可能な「科学」です。

しかしイエスはヨハネ5章46~47節でこう言われました。

「もしあなたがたがモーセを信じているなら、わたしをも信じるはずです。彼はわたしについて書いたのです。ところが、あなたがたは彼の書いたことを信けないのに、どうしてわたしのことばを信じるでしょうか。」
イエスのことばを信じていない人が、果たしてキリスト者と言えるでしょうか?

3 ユダヤ式段落とブロック・ロジック

イエスの創造理解を正しく進めるためには、ヘブル聖書(旧約聖書)の読み方を少し知っておく必要があります。伝統的なトーラーの巻物には、現代の「段落」のような改行や、空白が意図的に入れられています。これがユダヤ人が古くから用いてきた「本文の区切り」です。区切りを示す記号として、二つのヘブル文字が使われます。

  1. פ (ペー) → テーマや話題が大きく変わるとき
  2. ס (サメフ) → 同じ大きなテーマの中での小テーマ・枝分かれ

このペー פ で区切られたブロックは、現代の「章分け」とはほとんど一致しません。巻物を見ると、聖句がブロック状に並んでいるのが視覚的にわかります。一つのペー・ブロックは長かったり短かったりしますし、その中には複数のサメフ ס が入っていることもあります。たとえば十戒(出エジプト記20:2-17)では、強調のために「殺すなかれ」のように、たった一節だけをサメフで囲って独立させています。

ユダヤ人の思考は、「一つのブロックと次のブロックをどうつなげるか」を常に探します。マインドマップに近いイメージで、森と森とを結びつけていくのです。しかし一つのブロックの中では、木が一本、また一本と順番に並ぶような、物語的・時系列的な流れになっています。

また、ユダヤ聖書においては「神の存在」は前提です。証明など最初から必要ありません。神は創造主であり、被造物すべてをはるかに超えて高くおられる至高の存在です。ラビたち(賢者)はヘブル聖書を一字一句、神の言葉そのものとして扱いました。どの単語も、どの文字も意味を持っています。

だからこそ、ギリシア・ローマ的な直線的ロジック(Aか¬Aか、どっちが正しいか)で見ると「矛盾」に見える箇所も、ユダヤ人の目には矛盾ではありません。たとえば、エズラ記2章とネヘミヤ記7章に記されている、バビロン捕囚からの帰還民の人数や系図がぴったり一致しないことがあります。西洋的な思考なら「どっちが正しいのか」「どっちが誤りか」と問いたがりますが、ユダヤ人のブロック・ロジックはそんな問いを立てません。差異を「間違い」とは見なさないのです。両方をそのまま受け入れ、ネヘミヤ記のリストはエズラ記の補足であり、逆にエズラ記のリストはネヘミヤ記の補足である、と互いに結びつけて理解します。

したがって、聖書を正しく読むためには、現代の「章」単位ではなく、ペー(פ )で区切られた伝統的なユダヤのブロック単位で、ユダヤ人のブロック思考を身につけて読むことが極めて大切なのです。

4 創世記1章をどう読むべきか

「創世記1章を最も正確に読む」とは、一体どういうことでしょうか?

多くの学者が、聖書全体、特に創世記をどう解釈すべきかについて自分たちの考えを提示してきました。ある人は「創世記1章は詩的な表現だ」と言います。またある人は「普通に読むべきものではない」と主張します。

しかし、創世記1章を読むのに学者である必要はありません。どんな本を読むときと同じように、聖書のどの箇所も「素直に普通に読む」ことから逃げられる人はいません。

イエスご自身と使徒たちがそうしたように、創世記は「起源に関する歴史的記録」として素直に読むべきものです。

「文字通りに読む」と言っても、木で鼻をくくったような硬い解釈を意味するのではありません。文脈、ヘブル的慣用表現、「神の指」のような比喩表現なども、すべて「素直で普通な読み方」の一部です。そして何より重要なのは、創世記を聖書の他の書から切り離して読んではならないということです。

たとえば、聖書全体の最初のブロックである創世記1章1~5節を見てみましょう。この部分は52語、ヘブル文字で198文字から成ります。注目すべきは、この最初のブロックにはサメフ(ס )による小分けが一切なく、完全に一つのまとまりになっている点です。ユダヤの賢者たちはこの5節をひとつのエピソードとして読みます。そしてその日は「ヨーム・エハッド ( יוֹם אֶחָד )」──「一日」となります。

一方、西洋的な思考は「分けて支配せよ」という癖があり、たとえば「間隙説(gap theory)」のように無理やり1節と2節の間に何億年もの空白を挿入したがります。しかし伝統的なユダヤのブロック構造は、そういう分割を一切許していません。最初の創造の出来事は、最初から最後までひとつの連続したエピソードとして語られているのです。

さらに見てみると、1節と2節はヘブル文字の「ו」(ワウ)でしっかり結ばれています。この「ו」は「そして」という接続詞で、2節から3節、3節から4節と、5節に至るまで連続的に鎖のように繋がっています。そして5節の終わりに初めて פ (ペー)が現れ、最初のブロックの終わりと次のブロックの始まりを示しているのです。

5 ギャップ説

ところが間隙説の支持者たちは、1節と2節の間に大きな「空白(ギャップ)」があると主張します。そこにルシファーの堕落やサタンの反逆といった劇的な出来事を挿入し、「それゆえに地は形なく、空しくなった」と説明しようとします。しかしユダヤ人の思考には、そんな「初期状態の理由」を求める必要がそもそもありません。「神が初めにそのように地を創造された」のなら、それで十分なのです。神は何でもおできになります。神はご自身の知恵によって、6分ではなく6日で創造することを選ばれたのです。

それでも、西洋人の一部は聖書に何億年もの時間をねじ込みたくて、間隙説にすがります。では、本当に1節と2節の間に空白があるのでしょうか?

ヘブル聖書の叙述では、英語とは逆に、節は通常「動詞」から始まります。主語(名詞)は後です。そして多くの場合、その動詞の頭に「ו」(ワウ)が付き、直前の節との連続性を示します。ところが創世記1章2節は、極めて異例にも「名詞」から始まっています。まるで筆者が、「初めに創造されたばかりの地の状態」を一刻も早く伝えたいと急いでいるかのようです。

逐語訳するとこうなります。

「初めに、神は天と地を創造された。そして地はトーフー・ワボーフーであった……」

ところが間隙説の人は2節を「その後、地は荒廃し、空しくなった……」と訳したがります。しかしこれは、2節が意図的に語順を変えて1節との密接な繋がりを強調している事実と矛盾します。もし本当に時間的な空白があるなら、2節は創世記4章3節などと同様に「その後、時が経って……」という表現で始まるはずです。

創世記には「その後、時が経って……」(wayhi)が40回も出てきます。これはヘブル語ではたった一語 「 וַיְהִי 」です。地は女性名詞なので、間隙説が正しければ2節はこう書かれているはずです。

וֵהָיָה הָאָרֶץ תֹהוּ וָבֹהוּ
しかしその後、地はトーフー・ワボーフーになった……」
モーセはなぜそう書かなかったのでしょうか? 本当に空白があったなら、当然そう書くはずです。

したがって、1節と2節の間に時間的な空白を挿入することは、2節を וֵהָיָה (その後……になった)で始めさせることに等しい改変です。解釈のために聖書の文章を書き換えなければならないなら、それはほぼ確実に誤った解釈です。古代のユダヤ人ラビたちは、創世記1章に関する注釈の中で、決して空白など見ていませんでした。

まとめると、創世記1章1-5節の以下の特徴は、いかなる「空白」の主張にも完全に反しています。
(a) 聖書全体の最初のブロックが極めて短く、サメフ「ס 」による小分けが一切ないこと
(b) 叙述全体を繋ぐ接続詞「ו」(ワウ)の連続使用
(c) 2節が通常の動詞ではなく名詞から始まる、極めて異例な文法構造

間隙説は一部の西洋人が作り上げたものです。最初のブロックに空白を読み込むことは、聖書に外から持ち込む解釈(聖書解釈のエゼゲーシス)にほかなりません。間隙説は決して聖書の正確な解釈などではあり得ません。それは、歴史的に観察不可能な「古びて疲れた地球」という科学を、創世記1章に巧妙に挿入するための方便にすぎません。

では、聖書の最初の5節を記したモーセの頭の中に、本当にそんな「空白」があったのでしょうか?──もちろん、ありません。

6 深淵説(Chasm Theory)

もう一つ、間隙説よりもはるかに大きな空白を想定する説があります。時間スケールがあまりにも巨大なので、ここでは「深淵説」と呼ぶことにします。 この説では、最初のブロック(1章1~5節)を無理やり二つに分割します。

  1. 前半:1~2節
  2. 後半:3~5節
そして「第一の日」は3節の「神が言われた」から始まる、と主張します。理由は、第二の日以降はすべて「神が言われた」で始まっているからだというのです。

確かに創世記1章では「神が言われた」が10回出てきます。それなら10日間あったということになるのでしょうか?

深淵説のもう一つの根拠は、1~2節の動詞が「神が言われた」の動詞とはヘブル語の時制(態)が違うというものです。この観察自体は正しい。しかし、それを理由に「1~2節は六日間の前にはるか昔の、非常に長い期間を指す」と推測するのは飛躍です。

つまり、2節と3節の間に何十億年もの「深淵」を挿入し、ビッグバン理論の「138億年」と創世記を無理やり一致させようというのです。彼らはビッグバンが完全に証明されたと信じ込み、創世記1章を文字通りに読む人を「キリスト教の恥さらし」だとまで言う者もいます。。

・ 宇宙定数問題:理論値と観測値の差が「2倍」ではなく、10の120乗倍(1の後に0が120個)という、天文学史上最大級の恥ずかしい誤差です。

・ ジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の衝撃的発見:宇宙の「初期」に存在するはずの小さな原始銀河ではなく、すでに大きく成熟した銀河が無数に見つかりました。ビッグバン支持者たちは必死に「救済策」を探しています。

ユダヤの賢者たちは、最初のブロックにサメフ「ס 」による分割を一切入れていません。最も自然な読み方は、5節全体が途切れなく一つのエピソードであるということです。

天と地を創造した後、神がその被造物を「居住不可能な空っぽのまま」に放置し、聖霊が水の上を何十億年もただ彷徨わせ続けるなどという考えは、聖書の奇跡のテンポ(瞬時に行われる)と完全に矛盾します。

また、英語とは大きく異なり、ヘブル語の主要な時制は「完了態」と「未然態」の二つのみです。 1節の「創造した」( בָּרָא ) は完了態、2節の「であった」 (הָיְתָה )も完了態です。

なぜモーセはこの二つの節に完了態を使ったのか?

それは「初め」が文字通り「時間の始まり」だったからです。「最初に」という訳も可能です。時間の「前」に何があったかはモーセに啓示されていません。聖書の最初の節には「それ以前の出来事」が存在しないため、連続性を示す未然態(wayyiqtol)は文法的に使えないのです。モーセに選択肢はなく、完了態を使うしかなかったのです。

したがって、時制の違いを理由に深淵を設けるのは、まったく根拠のない議論です。

イエスの復活が超自然的奇跡であったように、創造も超自然的でした。神はイエスを死から蘇らせるのに30億年も待たせたりしませんでした。特定の時・特定の場所でのみ自然法則を停止させる──それが奇跡です。新しい天と新しい地も、黙示録が告げる通り、超自然的に一瞬にして成るのです。

皮肉なことに、深淵説はビッグバンとも矛盾します。

・ ビッグバンでは「最初」の宇宙は陽子よりも小さかったとされますが、1節ではすでに「天と地」(少なくとも地球サイズの空間)が存在しています。

・ 地球の誕生はビッグバン後90億年後とされ、表面は灼熱の溶岩だったと言われますが、2節は「水」がすでにあったと告げています。水を溶岩と解釈するのは無理があります

私たちの大洋の水はどこから来たのか? ペテロは2000年前にすでに答えを与えています(第Ⅱペテロ3:5-7)。

「昔から天があり、地は神のことばによって水からなり、水によって成り立っていた」
聖書は最初から地が水に覆われていたと、はっきりと告げているのです。

いくら「古い宇宙」と折り合いをつけようとしても、深淵説の支持者たちは依然として致命的な矛盾を抱えています。創世記の歴史的記述は、巨大進化論が描く「歴史」と本質的に相容れません。観測不可能な科学にさらに一貫しようとすれば、聖書から大量の節を削除しなければならなくなります。

一部分だけ合わせて、他の部分でまた矛盾する──その代償はあまりにも高すぎます。 観測不可能で、しかも科学的にも音を立てて崩れ始めているパラダイムに合わせるために、創世記の最初のブロックに「深淵」を読み込むことは、決して賢い選択ではありません。

ユダヤ人の思考は決してそうしませんし、最初の5節のブロックにはサメフ「ס 」による分割も一切ありません。

深淵説は、明らかな誤解釈です。

7 結論

ヘブル聖書を正しく読むための健全な解釈学(ハーミニューティクス)の重要性は、どれだけ強調してもしすぎることはありません。

神義進化論も長日時代説も、聖書的でも科学的でもありません。さらに、間隙説も深淵説も、ユダヤ人の伝統的思考によって完全に拒絶されます。どちらの説も、第一の日の本文には存在しない「区切り」を聖書外から無理やり挿入しなければ成り立たないからです。

観測不可能な科学に合わせるために聖書に余計な読み込み(エゼゲーシス)を行うことは、聖書を誤解する最短の道です。聖書の筆者が意図していない言葉や見解を付け加えて読む習慣は、今すぐにやめなければなりません。

一方で、間隙説・深淵説の支持者は、イエスご自身がなさった創世記の文字通りの解釈を拒否しています。 他方、世の科学者たちは、そんな妥協版の解釈であっても、伝統的なユダヤ的・文字通りの解釈より優れているとは認めません。結局、両方の世界から否定される、最悪の立場に立ってしまうのです。

この章の目的は、そうした見解を持つクリスチャンを非難することではありません。 むしろ、すべてのクリスチャンに、イエスが示された「文字通りの解釈」へと立ち返るよう呼びかけるものです。

時間と宇宙の創造は、実験によって真実を確かめられる領域ではありません。歴史は観測科学の境界の外にあります。科学者がしばしば語る「過去の歴史」は、所詮は観測不可能な推測にすぎません。しかし彼らがあまり口にしないのは、自分たちの巨大進化モデルを致命的に揺るがす観測事実が山のようにあるという現実です。

私たちは、霊感され無謬である神のことば(聖書)と、実際に観測・検証可能な科学の両方に対して、正直でなければなりません。

どの歴史科学者も、創造の「その瞬間」を目撃した人は一人もいません。 それなのに、多くのクリスチャンは彼らの物語を簡単に信じてしまいます。 クリスチャンが忘れがちな、たった一つの事実があります── キリスト教信仰を創設したのは、一人の科学者です。 そのお名前はイエス・キリスト。 アインシュタインをもってしても及ばない、最高の科学者です。 なぜなら、 「初めに、神は天と地を創造された」からです。