地球の年齢が数十億年だと信じることは、必ずしも進化論を信じることを意味するわけではありませんが......
キリスト教の創造論には、主に三つの大きな立場があります。地球の年齢を約6,000〜10,000年とする若い地球創造論(Young-Earth Creationism、YEC)、進化を神の導きとして受け入れる有神進化論(Theistic Evolution)、そしてその中間に位置する古い地球創造論(Old-Earth Creationism、OEC)です。
古い地球創造論の立場に立つ人々は、地球が非常に古い(数十億年)こと自体は受け入れますが、一般に大進化(マクロ進化)や、人類が類人猿のような祖先から進化したという考えを否定します。彼らは、神が地球の歴史のさまざまな段階において、超自然的な直接介入によって新しい生命の「種類」を段階的に創造してきたと考えます。
言い換えれば、古い地球(放射性年代測定や現代宇宙論)は認めますが、生物の大進化は否定します。初期の人類(猿人など)は人間ではない動物であると主張します。
古い地球創造論は、地球と宇宙の年齢を現代科学が示す約45億年・138億年という値と一致させながら、生物のマクロ進化――つまりすべての生命が一つの共通祖先から自然過程によって分化したという考え――を否定する立場です。代わりに、神が長い年月をかけて段階的に新しい生命の「種類」を直接創造されたと主張します。このアプローチは、聖書の権威を保ちつつ、科学の確かな成果を取り入れようとする真摯な試みとして、19世紀以降に発展してきました。
この考え方の歴史は、地質学の進歩と深く結びついています。18世紀末から19世紀にかけて、地層や化石の研究により地球が非常に古いことが主流になると、多くのキリスト教神学者は創世記の解釈を見直さざるを得なくなりました。スコットランドの神学者トマス・チャルマースは「断絶説」を提唱し、創世記1章1節と2節の間に長い時間のギャップがあると考えました。また、「日=時代説」では、ヘブル語の「ヨーム(日)」が24時間を意味するのではなく、広大な地質時代を象徴していると解釈しました。これらの考えは、1909年に発行されたスコフィールド参照聖書によって広く知られるようになりました。
現代の古い地球創造論の中心人物は、天体物理学者ヒュー・ロスです。彼は1980年代に「Reasons to Believe」を設立し、「漸進的創造論」を提唱しています。ロスによれば、神は数億年にわたって段階的に新しい生命形態を直接創造し、化石記録に残る絶滅と出現はその証だと言うのです。
古い地球創造論の根本的な動機は、聖書と科学の調和にあります。支持者たちは、神が「聖書」という言葉の書と「自然」という御業の書の両方によってご自身を啓示しておられると信じています(詩篇19篇、ローマ1:20)。放射年代測定や宇宙背景放射、化石記録といった起源科学的証拠を尊重しつつ、人間が神のかたちに特別に創造され、アダムの罪によって死と苦しみが人類にもたらされたという聖書の核心を守ろうとするのです。特にロスらは、起源科学の「事実」を否定する姿勢が無神論者を遠ざけ、福音宣教の妨げになると考えており、起源科学を積極的に取り入れることで現代人に訴えかけようとしています。つまり、「生物進化を否定しつつ、古い地球を認める」ことで、聖書と科学の調和を目指します。
古い地球創造論者は、堕落以前から動物の死が存在していたことを明確に認めています。彼らのおもな主張は概ね次のとおりです。
1. 化石記録は、人類の出現よりはるか以前から、絶滅・捕食・病気・死が存在していたことを示しており、これは地球が非常に古いという理解と一致する。
2. 神は、長大な年代にわたって直接的な介入を通して生命を段階的に創造され、自然のプロセス(死を含む)も、人間以外の世界に対する神の「きわめて良い」設計の一部であった。
3. 動物は神の霊的なかたち(神の像)を持たず、道徳的責任も負わないため、動物の死は道徳的悪ではなく、罪の結果でもない。
ロスらに言わせれば、この立場の長所は、起源科学の「事実」との高い整合性にあります。若い地球創造論のように「神が古く見えるように創造した」とする必要がなく、神を欺瞞的に描く危険を避けられると主張するのです。また、創世記の「日」を長大な時代と解釈することで、字義的な解釈に縛られず、聖書の文学的・詩的な性質を認める柔軟性が生まれると言うのです。さらに、マクロ進化を否定することで、人間の特別性と原罪の教義を保ち、有神進化論よりも保守的な立場を維持しています。物理学や天文学など自然科学の専門家が多いことも、知的説得力を強めています。
純粋に科学や論理の観点から見ると、古い地球創造論者が唱える漸進的創造論の最大の問題は、地球が非常に古いことを支持する主流科学者の見解は積極的に受け入れる一方で、生物の進化論に関しては否定するという、科学的根拠に基づかない恣意的な使い分けをしている点にあります。
具体的には、特定の時期や理由を一切示さないまま、検出不可能な『神の行為』を持ち出す点にあります。これにより、ポパーの基準でいう反証不可能性を満たしてしまい、科学とは認められない特徴を帯びています。予測能力に欠け(例:いつ、なぜ神が介入するかを説明する数学的モデルがない)、不必要な複雑さを導入しています。オッカムの剃刀に従えば、すべてのデータを一貫して説明できるのが、自然な進化なのか、それとも超自然的な創造なのか、どちらがより妥当かが問われます。
論理的に言えば、この恣意的な使い分けは「特別置定(Special Pleading)」にあたります。自分たちに都合の良い時だけ科学的手法を受け入れ、進化を否定したい時だけ超自然的な介入を持ち出すからです。
また、進化論によると、鳥類は魚類などの水生動物や、両生類・初期爬虫類といった陸上動物よりも、はるかに後に登場した動物群です。しかし、聖書に記されている「漸進的」創造の順序では、鳥類は陸生動物より先に造られたとされています。進化論を支持する科学者のみならず、多くの人々もすぐにこの矛盾に気づき、おかしい、信頼できないと感じるでしょう。
さらに、化石などの証拠は、「漸進的創造」によっても、「自然進化」によっても説明可能です。両者を明確に区別するための、反証可能なテストはありません。つまり、「漸進的創造」では、結果的に残酷な生存競争が最初からあったことになり、その点では「自然進化」と変わらないことになります。
古い地球創造論は、現代の起源科学の成果を丸ごと受け入れ、地球の年齢を約45億年とする立場から聖書を解釈しようとする誠実な試みです。しかし、特に若い地球創造論の視点に立つ多くの神学者や聖書研究者からは、神学的に深刻な問題を抱えていると指摘されています。これらの問題は、聖書の権威、死と罪の関係、創造の目的、そして福音の基礎に関わる核心的な教義に及びます。以下では、主な批判点を丁寧にまとめ、古い地球創造論側の主張も触れつつ、神学的な観点から検討します。この議論は、キリスト教内の兄弟姉妹間の対話として、互いに敬意を保ちながら進めるべきものです。
まず最も根本的な批判は、聖書の字義的解釈と権威に対する妥協です。創世記1章は、神が「六日のうちに」天地万物を創造し、第七日に休まれたと明確に記しています(創世記2:1–3)。出エジプト記20:11でも、「主は六日のうちに、天と地と海とその中のすべてのものを造り、七日目に休まれた」と繰り返されます。ここで用いられるヘブル語の「ヨーム(日)」は、数字が付く場合、通常の24時間を意味すると伝統的に理解されてきました。また、イェシュアご自身が創世記を歴史的事実として引用しておられる点(マルコ10:6「創造の初めから男と女に造られた」)も重視されるべきではないでしょうか。
古い地球創造の日=時代説(day-age theory)や枠組み説(framework hypothesis)は、これらの明瞭な記述を長大な地質時代や詩的構造に再解釈するものであり、起源科学の「事実」に聖書を合わせる恣意的な扱いだと批判されます。このようなアプローチは、聖書の無謬性と自己解釈の原則を損ない、他の教義(奇跡、処女降誕、復活など)も同様に比喩的に扱う危険を招くと指摘されます。
次に、アダムの罪以前の死と苦しみに関する問題は、神学的に最も深刻な批判点です。古い地球創造論は化石記録の古い解釈を受け入れるため、人類の出現以前に動物の死、捕食、病気、絶滅が数十億年続いたことを認めます。しかし、ローマ5:12は「罪は一人の人によって世に入り、罪によって死が入った。そうして死がすべての人に広がった」と教え、死をアダムの罪の直接的な結果としています。
また、創世記1:31で神はご自身の創造を「非常に良かった」と評価しておられますが、死や苦しみ、肉食は「非常に良い」状態に含まれるはずがありません。さらに、ローマ8:20–22では被造物全体が「虚無に服し、呻き、ともに産みの苦しみをしている」と描写され、これはアダムの罪による呪いの結果だと理解されます。古い地球創造論がこれを認めるなら、神は死を創造の設計の一部とし、残酷で矛盾した存在に描かれることになります。
そして何より、死が罪の結果ではなく自然過程であるなら、キリストの十字架による贖い――死の克服と新しい創造(1コリント15:21–22)――の必要性が根本的に揺らぎ、福音全体の基盤が崩れると強く主張されます。古い地球創造論側は「死」の適用を人類に限定し、動物の死は道徳的問題ではないと反論しますが、若い地球創造論側からは文脈と聖書の全体像に反すると見なされます。
さらに、創造の順序と目的の歪曲も指摘されます。創世記1章は明確な順序を示しており、人間は最後に造られ、すべての被造物に支配権を与えられました(創世記1:28)。しかし古い地球創造論の段階的創造では、多くの動物種がアダム以前に絶滅しており、人間はそれらを支配できなかったことになります。これでは、神の創造目的が無意味で不完全なものとなり、神の知恵と計画性が損なわれます。また、ノアの洪水を局所的と解釈する傾向がある点も、聖書の記述(創世記7:19–20の全球的洪水)を否定し、聖書の信頼性を低下させることになります。
最後に、神の啓示の扱いに関する問題もあります。古い地球創造論は起源科学を「自然の啓示」として聖書と同等に重視する傾向があり、いわゆる「二重啓示論」に陥る危険が指摘されます。聖書は神の特別啓示として優先されるべきなのに、時代によって 替わる起源科学の「事実」に聖書を適合させるのは順序が逆だとされます。その結果、神の性質が歪められ、聖書の明瞭さが失われるのです。
結論として、古い地球創造論は起源科学との調和を求める点で理解できる側面がありますが、神学的に見て、聖書の字義的権威、死と罪の不可分の関係、創造の目的、そして福音の核心を損なう重大なリスクを抱えています。これらの批判は、単なる解釈の違いではなく、キリスト教信仰の基盤に関わるものです。一方で、古い地球創造論の支持者たちも神の栄光と真理を真剣に求めており、この議論はキリスト教内の豊かな多様性を示しています。救いの本質――イェシュア・キリストの十字架と復活――はどちらの立場にも共通しており、互いに祈りながら聖書を学び、恵みによって導かれることを願います。最終的に、私たちが依拠するのは、神の言葉そのものの権威なのです。
古い地球創造論は、歴史科学と聖書の権威の双方を完全に満たすことなく、中間的な折衷案を取っているに過ぎない、という批判がなされる。その理由は、起源科学の立場から見ても、また聖書の視点から見ても、深刻な問題点がいくつかあるからです。 そういう意味において、古い地球創造論は中途半端な立場と言わざるを得ず、「なぜそこまで複雑な調和を求めなければならないのか」という、穏やかながらも核心を突く疑問を抱かせます。
地球の年齢が数十億年だと信じることは、必ずしも進化論を信じることを意味するわけではありませんが、「漸進的創造」は実質的には進化論と変わらないのではありませんか。