まず、一つの事実から始めましょう。
文書仮説は、モーセ五書がJ・E・D・Pという四つの独立した文書を継ぎ合わせたものだと説きます。ところが、この百五十年の間に、そのJの写本も、Eの写本も、Dの写本も、Pの写本も、ただの一枚たりとも発見されたことがありません。断片すら出てきません。物的証拠はゼロです。
それにもかかわらず、この仮説は世界中の神学校で標準的な教えとなりました。なぜでしょうか。証拠がないのに、なぜこれほど広まり、これほど長く生き延びたのでしょうか。
十八世紀の半ば、フランスの医師ジャン・アストリュックが、創世記には神の名前が二通り使われていることに気づきました1。אֱלֹהִים(エロヒーム)と יהוה(ヤハウェ)です。彼はそこから、モーセが二つの古い資料を使ったのだろうと推測しました。
この小さな観察が、やがて大きな体系へと育っていきます。神の名前の違い。文体の違い。同じ出来事が二度語られているように見える箇所――いわゆる「重複記事」。学者たちは、これらを「継ぎ目」と呼びました。もともと別々だった文書を後世の編集者がつなぎ合わせたときに残った、縫い目の跡だというのです。
そして一八七八年、ユリウス・ヴェルハウゼンが『イスラエル史』第一巻を世に出しました2。彼の手にかかると、それは単なる文学理論ではなくなりました。イスラエルの宗教そのものの、壮大な進化史になったのです。
ヴェルハウゼンの発展図式
素朴で自発的なヤハウェ信仰(J・E) → 倫理的な預言者宗教(D) → 捕囚後の硬直した祭司宗教(P)
単純なものから複雑なものへ。素朴なものから洗練されたものへ。原始的な宗教が、段階を追って高度な宗教へと進化していく――どこかで聞いた話ではありませんか。
理論というものは、真空の中で受け入れられるのではありません。その時代の空気の中で受け入れられます。では、十九世紀の空気とはどのようなものだったでしょうか。
この空気の中で、文書仮説はまことに具合よく収まりました。イスラエルの宗教を、他の古代宗教と何ら変わらないもの――社会的・政治的な圧力のもとで少しずつ発展してきたもの――として描くこの理論は、いかにも現代的で、いかにも洗練されて見えたのです。
しかし、ここで立ち止まって考えてみてください。それは証拠が理論を選んだのでしょうか。それとも、時代の好みが理論を選んだのでしょうか。
いったんこの仮説がドイツの大学で主流の座を占めると、そこに巨大な慣性が生まれました。十九世紀後半から二十世紀初頭にかけて、ドイツは世界の聖書学の中心地です。そこで認められることが、学者としての通行証でした。
資料批判を使いこなせることは、真剣で「批判的な」研究者である証しとなりました。逆に、それに疑問を投げかける者はどうなるでしょうか。保守的、信仰告白的、非科学的――そういう札を貼られる危険がありました。
はっきり言いましょう。JEDPのさまざまな形を発展させ、擁護することによって、論文が書かれ、教授職が得られ、学問的な名声が築かれていったのです。
現代のリベラル学者たちは、聖書を「解体」することで給料と名声を得ています。これは人格の問題ではありません。仕組みの問題です。ある理論の上に自分の生活が乗っているとき、人はその理論を疑いにくくなります。学問のパラダイムが簡単には変わらない理由が、ここにあります。そこから離脱するには、あまりにも大きな代償が伴うからです。
主流派プロテスタントの多くにとって、この仮説は神学的にたいへん便利な道具でもありました。何ができるようになったのでしょうか。
要するに、この仮説は、聖書という書物を手元に残したまま、聖書についての伝統的な教理をほとんど捨て去るための方法を提供したのです。
信仰告白の正しさよりも、学問的な体裁や社会的な評判のほうを重んじる環境では、これは実に魅力的な選択肢でした。そして、今もそうです。
ここが核心です。順を追って見ていきましょう。
「神の名前が違う、文体が違う、話が重複している――ゆえに資料が違う」。この判定基準をいったん受け入れると、何が起こるでしょうか。本文のほとんどどんな相違でも、J・E・D・P、あるいは編集者の仕業として説明できるようになります。説明できない箇所が、なくなるのです。
そして、本文をきれいに分割できたこと自体が、理論を裏づける証拠として数えられました。外部の写本証拠がないことは、さほど重大な問題とは見なされません。なぜなら、その方法論はもともと外部資料ではなく、本文内部の文学的分析に立っていたからです。
こうして理論は自己強化的になりました。ほかの説明――一人の著者が場面に応じて文体や資料を使い分けた、後代の写字生が地名を更新した、あるいは意図的な文学的技巧である――こうした説明は、しばしば「特別な弁明」「無理な調和化」として退けられます。
お気づきでしょうか。これは、私がビッグバン模型について繰り返し述べてきたことと、そっくり同じ構造です。何が観測されても説明できてしまう理論は、もはやどんな観測によっても否定されません。否定されえない理論は、実証科学の外に出てしまっているのです。
そのうえ、循環論法がひそんでいます。神の名前が違うから資料が違う。資料が違うから神の名前が違う。この輪の外に出る手立てが、どこにあるでしょうか。
ここで、多くのクリスチャンが知らない事実をお伝えしたいと思います。
古典的な文書仮説は、保守的な信仰者に攻撃されて倒れたのではありません。批評学者たち自身の手で崩されました。
一九七五年、ジョン・ヴァン・セーターズがアブラハム物語の伝統的な資料区分に疑問を突きつけました。そして一九七七年、ロルフ・レントルフが『モーセ五書の伝承史的問題』を発表します3。これが転回点でした。レントルフ以前のヨーロッパの研究はおおむね文書仮説的でしたが、レントルフ以後はほとんど非文書仮説的になった――そう評されるほどの断絶です。さらに一九八七年、R・N・ホワイブレイが『モーセ五書の成立』で、資料区分の基準そのものを解体しました。
興味深いのは、その後どうなったかです。彼らは一つの新しい合意にたどり着いたでしょうか。いいえ。ある者は補充モデルへ、ある者は断片モデルへ、ある者は修正版の文書説へと散っていきました。共通しているのは、伝統的な資料区分の基準を捨てたという一点だけです。
つまり、こういうことです。四資料説は、専門家の間ではとうに揺らいでいます。それなのに、一般向けの解説書や神学校の教室では、いまだに確立した事実であるかのように語られ続けているのです。
なぜでしょうか。本来の土台が疑問視されたあとも、制度的な慣性とキャリア上の誘因が、その地位を支え続けたからにほかなりません。
ここまでは、人間の学問の話でした。しかし、私たちには、はるかに重い証言があります。
救い主であり、宇宙の創造主であるイェシュア(יֵשׁוּעַ)は、モーセ五書の著者について、はっきりと語られました。
「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしをも信じるはずです。彼はわたしについて書いたのです。けれども、あなたがたが彼の書いたことを信じないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょう?」(ヨハネ5:46~47)
また、燃える柴の箇所を引用されたときには、こう言われました。
「τῇ βίβλῳ Μωϋσέως(テー ビブロー モーセオース/モーセの書)に……書いてあるのを、あなたがたは読んだことがないのか」(マルコ12:26)
イェシュア(יֵשׁוּעַ)は、モーセが著者であることを明確に認められました。ここに、選択が生じます。
十九世紀ドイツの学者たちの再構成を取るのか。それとも、モーセを直接ご存じであり、シナイ山でモーセと語られたお方ご自身の証言を取るのか。
夏目漱石文学の最高の権威であっても、漱石本人に勝ることはできません。同じように、どれほど優れた聖書学者であっても、聖書の著者を立てられたお方に勝ることはできないのです。
こう考えてみてください。
ある建築史家が、一軒の家を調べて、こう宣言します。「この家は、もともと四軒の別々の家を解体して継ぎ合わせたものである。証拠は、部屋によって壁紙の柄が違うこと、床材が違うこと、同じような部屋が二つあることだ」。
もっともらしく聞こえます。しかし、私たちはこう尋ねるでしょう。その四軒の家は、どこにあるのですか。設計図はありますか。写真はありますか。一枚でも板が残っていますか。
「いや、四軒の家はもう存在しない。しかし、壁紙の柄が違うのだから、四軒あったに違いないのだ」――これで納得できるでしょうか。
百五十年が経ちました。J・E・D・Pの写本は、今日に至るまで、ただの一枚も出てきていません。
人々が文書仮説に惹きつけられた理由は、決定的な外的証拠があったからではありません。そのような物的証拠は、初めから存在しないのです。
惹きつけられた理由は、それが有用だったからです。聖書本文にある文学上の難所を、当時の文化的な価値観――進化論的な歴史観、反超自然主義、そして学問的威信――と調和する形で説明しました。そして五書を、十九世紀の歴史主義者たちが抱いていた「宗教とはこのように発展するものだ」という前提を映し出す、一枚の鏡へと変えたのです。
いったん制度として確立されると、それは「批判的」聖書学の標準装備となりました。その支配は、本来の土台が疑問視されたあとも、制度的慣性とキャリア上の誘因によって、長く長く維持されました。
もちろん、聖書本文に注意深く目を向けること自体は、少しも悪いことではありません。神の名前の違いにも、文体の違いにも、必ず意味があります。ユダヤの賢者たちは、一字一句に意味を認めて読んできました。問題は観察ではなく、観察の上に築かれた前提のほうにあるのです。
外部からの裏づけが欠けていても、理論は生き延びます。内部的な整合性、文化的な適合性、そして制度的な権力によって、何世代にもわたって生き延びるのです。しかしその「整合性」とは、理論から独立した客観的証拠ではありません。研究者が自ら採用した分割の基準が、そのまま返ってきているだけの――解釈上の整合性にすぎないのです。