神学の起源

聖書にない言葉は、どこから来たのか

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聖書のどこに「神学」ということばがあるでしょうか。
探しても、見つかりません。
では、この言葉はどこから来て、いつ「学問の女王」になったのでしょうか。

1 消えていることば

聖書にない言葉
はじめに

新約聖書の本文に、θεολογία(テオロギア/神学)ということばは、ただの一度も出てきません。θεολόγος(テオロゴス/神学者)にいたっては、黙示録の巻頭に後代の写字生が付した表題――「神学者ヨハネの黙示」――に現れるだけで、霊感された本文の一部ではありません1。

初代教会にも、「牧師は神学校で学び、学位を取得してからでなければ講壇に立ってはならない」という決まりはありませんでした。ペテロもヨハネも、当時の議員たちに「無学な、普通の人」と見られていたのです(使徒4:13)。

それなのに、今日「神学」は聖書を語るための必須の道具とされています。いったい、いつ、どこで、そうなったのでしょうか。

順を追って見ていきましょう。この言葉の来歴そのものが、一つの答えを与えてくれます。

2 プラトンが造ったことば

言葉の誕生
紀元前375年頃 ─ 古代ギリシャ

「神学」の語源は、ギリシャ語の θεός(テオス、神) と λόγος(ロゴス、言葉・理性) です。ここまではよく知られています。しかし、誰が、何のために造った言葉かをご存じでしょうか。

  • プラトン『国家』第2巻379a(紀元前375年頃)。現存する最古の用例です2。しかも彼がこの語で指したのは、神についての真理ではありません。ホメロスやヘシオドスら詩人が語った神々の物語――つまり神話のことでした。研究者の多くは、プラトンの θεολογία を μυθολογία(神話学)とほぼ同義に取っています。
  • アリストテレス『形而上学』(紀元前350年頃)。彼はこの語を引き上げ、θεολογική(テオロギケー)として理論哲学の最高部門に据えました。非物質的で神的な究極の実在を、人間の理性によって研究する学問です。
要点:古典古代において「神学」は、異教ギリシャ哲学と神話学の一分野でした。ユダヤ人の営みでも、キリスト信仰の営みでもありません。モーセも、ダビデも、パウロも、この言葉を一度も使っていないのです。

3 教父たちのためらい

異教的な響きからの再定義
150〜500年頃

興味深いことに、初期のキリスト者たちはこの言葉を警戒していました。ギリシャの異教神話と結びつきが強すぎたからです。彼らの感覚のほうが、正しかったのかもしれません。

  • アレクサンドリアのクレメンス(200年頃)、オリゲネス、アタナシウス、アウグスティヌス(354–430年)らが、この語を徐々に取り込み、再解釈していきました。
  • θεολογία を「神の啓示に対する理性的反省」として用い、神ご自身の本性(theologia)と、救いの歴史における神の働き(oikonomia)とを区別しました。
  • ボエティウス(500年頃)が、神学を哲学の一部門として正式に位置づけ、中世教育の土台を築きます。
要点:ここで一つの転換が起きました。神学は「哲学の一部門」になったのです。聖書が哲学を裁くのではなく、哲学の枠組みの中に聖書が置かれる――その配置は、今日まで続いています。

4 「学問の女王」の戴冠

大学とスコラ学の時代
1150〜1300年頃

制度としての神学――厳密で体系的な、大学レベルの学問――が確立したのは、高度中世です。

  • パリ、オックスフォード、ボローニャに大学が生まれ、神学は独立した学部となりました。
  • ピエール・アベラール、ペトルス・ロンバルドゥス、トマス・アクィナスらスコラ学者が、聖書と伝統と理性を調和させる論理的方法を発展させます。その方法とは、アリストテレスの弁証法でした。
  • 神学は「学問の女王(Regina Scientiarum)」として、最高の地位を与えられました。
要点:お気づきでしょうか。ヘブライ人が書いたヘブライ語の書物を読み解く方法として、ギリシャ人アリストテレスの論理が採用されたのです。しかもそのアリストテレスは、イェシュア(יֵשׁוּעַ)を知りませんでした。
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要約タイムライン

時代 主要な里程標 主な焦点
紀元前375年頃 プラトンが θεολογία を記録 詩人が語った神話の哲学的分析
紀元前350年頃 アリストテレスが『形而上学』で使用 理性による思弁哲学の最高部門
200〜400年頃 教父たちが警戒しつつ採用 キリスト教教義と神の本性の体系化
500年頃 ボエティウスが哲学の一部門と位置づけ 中世教育の土台
12〜13世紀 スコラ学と中世大学 アリストテレス弁証法による体系化

5 ヘブライ的に読むか、ギリシャ的に読むか

問題の根
二つの読み方

ここまでの流れを一言でまとめるなら、こうなります。ギリシャの道具が、ヘブライの書物に適用された。

それのどこが問題なのでしょうか。別稿「ユダヤ的な聖書の読み方」で述べたとおり、聖書66巻は、神に召されたユダヤ人が、ユダヤ人に向けて書いた書物です。そして彼らには、彼ら自身の読み方がありました。パルデス(פַּרְדֵּס/PaRDeS)――ペシャト、レメズ、デラシュ、ソードという四つの層を、字義を土台として積み上げていく読み方です。

ユダヤ人の思考は、ブロックとブロックを結びつけます。エズラ記とネヘミヤ記の名簿が食い違っていても、彼らは「どちらが誤りか」とは問いません。両方を受け取り、互いの補足として理解します。

ところがギリシャ・ローマ的な直線的論理は、こう問います。「Aか、非Aか。どちらが正しいのか」。この物差しを当てると、矛盾に見えないものまで矛盾に見えてきます。分けて、切って、体系化しなければ気が済まないのです。

そして――お気づきでしょうか――これこそが、文書仮説を生んだ思考の癖にほかなりません。神の名前が違う。文体が違う。ならば著者が違うに違いない。別稿「文書仮説はなぜ受け入れられたのか」で見たとおりです。

要点:神学そのものが悪いのではありません。神について考えることを、誰が禁じられるでしょうか。問題は、ヘブライの書物を、それを書いた人々とは異質な論理の枠に押し込めてしまうことです。道具は、使う対象を選びます。

6 現代の神学校で起きていること

霊的戦いの現場
二十一世紀

今日、多くの神学校がリベラル(あるいは「プログレッシブ」)な立場を取るようになりました。おおむね主流派プロテスタントの伝統と結びついた学校です。そこで強調されるのは、歴史批評的な聖書解釈、社会的公正、インクルージョン、宗教間対話、多様性、そして現代の文化や倫理への対応です。聖書の無謬性や信仰告白的正統性を重んじる福音派・保守派の神学校とは、しばしば対照的に語られます。

ここで、信じがたい事実を一つ申し上げます。神学校を卒業して、かえって神への信仰を失ってしまう人がいることを、ご存じでしょうか。

プログレッシブ・キリスト教へ移る人がいます(クリスチャンとしての自己認識は保ちながら、信仰内容を再解釈する立場です)。「宗教には属さないがスピリチュアル」な立場へ移る人がいます。不可知論へ、そして無神論へと移る人もいます。

神学校という業界もまた、あくまで人間の営みです。そこでは霊的な戦いが熾烈に展開されています。

そして、注目していただきたい共通点があります。プログレッシブ・キリスト者たちは、ほぼ例外なく、創世記の最初の数章を歴史として読みません。偶然でしょうか。私はそうは思いません。始まりを手放した者は、やがて終わりも手放すことになるからです。

神学校や聖書塾に行くと、どうしてもその中の偉い神学者の観点に同調しがちになります。別稿でも申し上げたとおり、聖書は真理を求める普通の人々のために書かれたものです。学者に解釈の独占権はありません。

7 結び ── 一つの提案

それでは、どうすればよいのか
観点

誤解のないように申し上げます。神学を学ぶな、と言っているのではありません。私自身、教父たちからも中世のユダヤ学者からも多くを学んできました。本書の姿勢は一貫しています――誰にも盲従せず、誰にも敬意を払う。

申し上げたいのは順序の問題です。パルデスが教えるとおり、ペシャト(字義)がすべての土台です。どれほど精緻な体系も、本文の明らかな意味に反するなら、それは正しい解釈ではありません。神学は聖書に仕えるべきものであって、聖書が神学に仕えるのではないのです。

生成AIが普及し、多様な意見や見解に誰でも触れられる時代になりました。だからこそ、こう思うのです。神学校の必要性が問われる時代になっているのではないでしょうか。

そこで一つ提案があります。漢検や英検のような、聖書理解の検定があってはどうでしょうか。学位でも身分でもなく、聖書そのものをどれだけ正確に読めるかを測る仕組みです。そのほうがよほどバランスよく、聖書の学びと信仰の向上に役立つのではないかと思うのです。

プラトンが神話を語るために造った言葉が、二千四百年かけて「学問の女王」になりました。しかし女王には、仕えるべき主がおられます。

Notes

  • θεολόγος は黙示録の伝統的な標題「Ἀποκάλυψις Ἰωάννου τοῦ θεολόγου」に現れるが、これは後代の写本に付された表題であり、本文には含まれない。 ↩
  • Plato, Republic II, 379a4:οἱ τύποι περὶ θεολογίας。現存する最古の用例。ヴェルナー・イェーガーは、プラトンがこの語を造ったと論じている。 ↩