モーセ五書の著者は誰か

——近代批評学の主張に対する反論——

1 はじめに

この問いは、学者だけの問題ではありません。イェシュア(יֵשׁוּעַ)ご自身が、ご自分の信用をこの一点に賭けておられるからです。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしをも信じるはずです。彼はわたしについて書いたのです。けれども、あなたがたが彼の書いたことを信じないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょう?」(ヨハネ5:46-47)

お読みになって、お気づきでしょうか。イェシュア(יֵשׁוּעַ)は「モーセを信じること」と「わたしを信じること」を、はっきりと結びつけておられます。切り離せる二つではないのです。

ですから、モーセ五書の著者をめぐる議論は、単なる文学史上の細かい論争ではありません。それは、救い主のことばをどう受け取るかという問題に、まっすぐつながっています。

とはいえ、批評学者たちの主張を無視してよいということではありません。本書の姿勢は一貫しています――誰にも盲従せず、誰にも敬意を払う。ですから、彼らの主要な四つの主張を、一つずつ正面から取り上げましょう。逃げも隠れもいたしません。

2 第一の反論——モーセは自分の死を書けたのか

申命記34章には、モーセの死と埋葬が記されています。さらに「その後、イスラエルにはモーセのような預言者は現れなかった」という、明らかに後代を振り返る一文まであります。本人が自分の死後を書くことはできない――これが批評学者たちの第一の主張です。

もっともな指摘に聞こえます。では、どう答えるのでしょうか。

A ヨシュアによる追記——ユダヤ人自身の古い答え

実は、この問いは近代批評学の発明ではありません。はるか昔にユダヤの賢者たちが気づき、答えを出しています。バビロニア・タルムード『ババ・バトラ』15aには、こう記されています。モーセが五書を書き、ヨシュアが最後の八節(申命記34:5-12)を書いた、と1

興味深いのは、同じ箇所に別の見解も併記されていることです。その八節もモーセが書いた、ただし神が口述され、モーセは涙ながらに(בְּדֶמַעベデマ)書き記したのだ、という立場です。

つまり、二千年近く前のラビたちは、この問題をとうに知っていました。知ったうえで、モーセ五書の著者はモーセであると受け止め続けたのです。近代の学者が新しく発見した「難点」ではありません。

B 預言者としての記述

モーセは単なる歴史家ではありません。神から直接啓示を受けた預言者です。死の直前、彼はネボ山から約束の地を望み見ました(申命記34:1-4)。そこで自らの最期についても啓示を受け、それを書き記した――そう考えることに、何の無理があるでしょうか。

古代イスラエルの預言者は、未来の出来事を確定した事実として、過去形で語り書く手法を用いました。いわゆる「預言的完了」です。将来のバビロン捕囚を、すでに起こったことのように書く預言者がいるのです。自らの死を描くことも、啓示の枠組みの中では十分にあり得ました。

C 古代近東の文書慣行

古代近東の法典や叙事詩では、著作者や法制定者の功績を称え、その最期を伝える結びの一段が末尾に添えられるのが典型でした。文書を公式記録として完結させるための、当時のごく普通の作法です。これをもって「では主著者は別人だ」と結論することは、現代の著作権概念を三千年前の文書に押しつけることにほかなりません。

そして、ここが肝心です。最後の八節を誰が書いたにせよ、それが創世記1章1節の著者を変えることがあるでしょうか

3 第二の反論——時代錯誤(アナクロニズム)という指摘

第二の主張は、本文の中にモーセの時代には存在しなかった名称や視点が混じっている、というものです。

代表的な例が創世記14章14節の「ダン」という地名です。この町がダンと呼ばれるようになったのは、ダン族がלַיִשׁ(ライシュ)を占領して改名した後のこと――つまりモーセの死後です(士師記18:29)。もう一つは創世記36章31節、「イスラエル人に王が君臨する前に……」という一文。これは王政を経験した後代の人間の視点ではないか、というわけです。

A 後代の写字生による地名の更新

最も自然な答えはこれです。モーセが原典を書いた後、後代の写字生が、当時の読者に通じるように古い地名を更新した。もともと「ライシュ」と書かれていた箇所に、読者が分かるよう「ダン」と記したのです。

現代の歴史書が「古代ガリア(現在のフランス)」と注記するのと、何が違うでしょうか。それを見て「この本の著者はフランス共和国成立後の人物に違いない」と言い出す人がいるでしょうか。

「今日に至るまで……」といった表現も同様に、後代の注記(グロス)と理解できます。写本が更新されることと、原著者が誰であるかは、まったく別の問題です。

B 王についての記述——預言者の視点

創世記36章31節はどうでしょうか。ここで思い出していただきたいことがあります。神はすでにアブラハムに「あなたから王たちが出る」と約束され(創世記17:6)、ヤコブにも同じ約束をされました(創世記35:11)。さらに申命記17章14-20節では、将来イスラエルに立てられるべき王について、あらかじめ律法が定められています。

モーセは、イスラエルにいつか王が立つことを神から知らされていました。知っている者が、それを前提に書くことのどこが不自然なのでしょうか。

4 第三の反論——神の呼称と文体の違い

第三の主張が、いわゆる文書仮説の土台です。神をיהוה(ヤハウェ、主)と呼ぶ箇所とאֱלֹהִים(エロヒーム、神)と呼ぶ箇所が分かれている。文体も違う。同じ出来事が二度語られているように見える。ゆえに、J・E・D・Pという別々の資料を後から編集したものだ――そう主張します。

この仮説がなぜ受け入れられ、そして学問の世界でどのように崩れていったかについては、別稿「文書仮説はなぜ受け入れられたのか」で詳しく扱いました。ここでは本文そのものに即して答えます。

A 呼称の違いは、資料の違いではなく著者の意図

神の呼び名が変わるのは、書き手が変わったからではありません。その場面で神のどの側面を際立たせたいか――著者の明確な意図によるものです。

יהוה(ヤハウェ)は、イスラエルと契約を結ばれた個人的な神、契約と救いの神としての側面を強調する文脈で用いられます。אֱלֹהִים(エロヒーム)は、万物を造り支配される普遍的・超越的な全能者としての側面を強調する文脈で用いられます。

エジプトやメソポタミアの古代文献でも、同一の著者が同一の神を、その役割や場面に応じて別の称号で呼び分けることは、ごく普通に行われていました。これは推測ではなく、実証されている事実です。

B 文体の違いは、主題の違い

一人の著者が、扱う主題に応じて文体を変える。これのどこが不思議でしょうか。

儀礼の規定には正確で形式的な言葉が要ります。歴史の叙述には生き生きとした描写が要ります。そして申命記32章のような歌には、詩の言葉が要ります。同じ人物が書いた法律文書と叙事詩と詩歌の文体が異なるのは、当たり前のことではありませんか

むしろ問いたいのはこちらです。法典と物語と詩が同じ文体で書かれている書物があったら、そのほうがよほど奇妙ではないでしょうか。

C 循環論法という問題

批評学派が用いる分割の手法そのものに、論理の輪が仕込まれています。

「ヤハウェという名が使われているからJ資料である」。「P資料だから儀礼的な語彙が多い」。あらかじめ定めた基準で本文を裁断し、その裁断できたこと自体を仮説の証拠とする――これは証明ではありません。前提を言い換えているだけです。

しかも、洪水物語のように、一つの短い段落の中で神の呼称が交互に現れる箇所があります。これを複数資料の継ぎはぎと見るなら、編集者はよほど几帳面に一行ずつ交互に貼り合わせたことになります。そんな編集者が実在したでしょうか。

D 本文が示す年代——最も重い証拠

ここからが、本稿で最もお伝えしたい点です。

申命記の全体構造は、古代の宗主・臣従条約の形式をそのまま踏んでいます。ところが、この条約形式には時代による違いがあるのです2

紀元前二千年紀後半、すなわち後期青銅器時代のヒッタイト条約には、二つの特徴がありました。第一に、宗主がこれまで臣下に施した恩恵を語る「歴史的序言」を持つこと。第二に、祝福と呪いの両方を釣り合わせて記すことです。

これに対して、紀元前一千年紀の新アッシリア条約はどうでしょうか。歴史的序言はありません。そして記されるのは呪いだけで、祝福は伴いません。

では、申命記はどちらの型でしょうか。歴史的序言を持ち、祝福と呪いを釣り合わせて記す――紛れもなく後期青銅器時代の型です。つまりモーセの時代の型であって、批評学者たちが申命記の成立を置きたがる紀元前七世紀の型ではありません。

これは印象論ではありません。文書の形式そのものが年代を語っているのです。

語彙も同じ方向を指しています。出エジプト記から民数記にかけての本文には、古代エジプトの地名・役職名・借用語が数多く含まれています。その一方で、捕囚期以降のヘブライ語に必ず現れるペルシャ語やギリシャ語の影響が、見事に欠けています。後代の編集者の創作物であれば、なぜこうなるのでしょうか。

5 第四の反論——なぜ三人称なのか

第四の主張です。五書を通じて、モーセは「わたし」ではなく「モーセは〜した」と三人称で描かれている。しかも「モーセという人は、地上のだれよりも非常に謙遜であった」(民数記12:3)という自画自賛めいた一文まであります。本人の筆ではあるまい、というわけです。

A 古代の公的記録の作法

古代の公的記録や歴史叙述において、著者が自分を三人称で書くことは一般的な慣習でした。カエサルは『ガリア戦記』で終始「カエサルは〜した」と書いています。クセノポンも『アナバシス』で自分自身を三人称で描きました。

モーセ五書は私的な日記でも回想録でもありません。民全体に向けた神の民の公的記録であり、法典です。感情のこもった一人称を避け、客観的な文体を採るのは、むしろ当然の選択ではないでしょうか。

B 「非常に謙遜であった」をどう読むか

民数記12章3節については、三つのことを申し上げます。

第一に、文脈です。この一文は、アロンとミリアムがモーセを非難した場面(民数記12:1-2)の直後に置かれています。モーセが自慢しているのではありません。なぜ彼が反論せず、裁きを神に委ねたのか――その理由を記録する必要があったのです。

第二に、語義です。ヘブライ語のעָנָוアナヴ)は、単なる性格上の控えめさを指す語ではありません。「苦しみを受けた者」「虐げられた者」「神に従順な僕」をも意味します。自分の徳を誇る言葉ではなく、神の前での無力さを表す言葉なのです。

第三に、この一文もまた後代の注記である可能性は残ります。しかし――ここでも同じことを申し上げねばなりません。注記が一つ二つあることを認めたところで、五書全体の著者がモーセであるという事実は、少しも揺らがないのです。

6 四つの反論に共通するもの

ここまで一つずつ見てまいりました。では、四つを並べて眺めてみましょう。何にお気づきになるでしょうか。

第一の反論が問題にするのは、最後の八節です。第二の反論は、いくつかの地名です。第三の反論は、神の呼び名と文体です。第四の反論は、人称です。

はっきり言いましょう。四つとも、周縁部の話です。シナイ山でモーセが受け取った啓示の中身について、一つとして触れていません。天地創造の記事が偽りだと論証したものは一つもありません。十戒が後代の創作だと示したものも一つもありません。

さらに大切なことがあります。仮にこの四つの指摘をすべて認めたとして、そこから何が出てくるでしょうか。出てくる結論はこうです――モーセが五書を書き、後代の写字生が地名を更新し、後継者が結びを書き足した

これは、まさに伝統的な立場そのものではありませんか。ユダヤの賢者たちが二千年前から言ってきたことと、どこが違うのでしょうか。

四つの反論は、文書仮説を証明していません。J・E・D・Pという四つの独立した文書の存在を、ただの一つも立証していないのです。写本は一枚も出ていません。四つの反論が示しているのは、せいぜい「本文は伝承の過程で丁寧に手入れされてきた」ということだけです。それは、どの古代文書にも起こったことにすぎません。

結び

聖書は、真理を求める普通の人々のために書かれたものです。学者に解釈の独占権はありません。彼らの洗練された議論や「証拠」は説得力があるように聞こえるかもしれませんが、その結論はしばしば神の明らかな啓示に反しています。

どの神学者も、モーセ以上の権威を持つことはありません。それは、夏目漱石文学の最高の学者が、夏目漱石本人に勝ることはないのと同じです。聖書の著者たちは、聖霊の感動のもとで神の命によって書き記しました。神の感動という基準から見れば、どの学者もモーセに勝ることはできないのです。

そして何より、イェシュア(יֵשׁוּעַ)ご自身が、繰り返しモーセを著者として認めておられます。燃える柴の箇所を引いて「τῇ βίβλῳ Μωϋσέωςテー ビブロー モーセオース/モーセの書)に……書いてあるのを、あなたがたは読んだことがないのか」と言われました(マルコ12:26)。エマオへの道では「モーセやすべての預言者から始めて」ご自分について書かれたことを解き明かされました(ルカ24:27)。

神の子イェシュア(יֵשׁוּעַ)は、今日も同じ問いを投げかけておられます。

「もしあなたがたがモーセを信じているのなら、わたしをも信じるはずです。彼はわたしについて書いたのです。けれども、あなたがたが彼の書いたことを信じないのなら、どうしてわたしのことばを信じるでしょう?」(ヨハネ5:46-47)

クリスチャンと呼ばれるあなたは、どちらの側に立ちますか。

Notes