創世記1・2章:真実の語り物?

あるクリスチャンのブロガーのサイト https://siyach.org を偶然見つけました。

このブロガーは「創世記1章と2章は真実だが創造論はそうではない」という題の文章をサイトにおよそ一年前から掲載しています。

彼は、「化石記録や天文観測は地球とその上の生命が何百万年・何十億年もの間に現れたことを示している」という立場をとる人々を、科学を真面目に受け止める合理主義者と呼んでいます。

一方で、「創造の物語は比喩的に読まれるべき」と考えない人たちを、文字どおりに読む人(=リテラリストliteralist)だと名付けています。

この区分は意図的に論争を起こそうとするためのものではないと思われますが、「科学は常に一種類だけだ」という誤解や混乱を浮き彫りにしているようです。

彼が言う「化石記録や天文観測」とは、紛れもなく科学的な証拠であることは間違いありません。リテラリストたちはそれを否定せず、受け入れています

両方の立場の人々も、今日行われているような反復可能で再現可能な 実証科学を受け入れているでしょう。

しかし、「化石記録や天文観測の状況証拠が地球と生命を何百万年・何十億年かけて形成されたと示している」とする主張は、大進化論によって色づけされた解釈です。

そのような何十億年という解釈・推測は「起源に関する歴史科学」と呼ばれる別の種類の科学なのです。

おそらく彼のように、多くの人々はこの二つの異なる種類の科学があることを認識していないのでしょう。 また、「観察やデータは解釈を必要とする」という事実すら知らず、それによって生じる別の混乱に陥れています。 多くの科学者も同様に、解釈の必要性を理解していないのです。

明らかに、起源はずっと昔に起きました。言うまでもなく、誰もそれを直接観察したり目撃したわけではありません。私たちは理論や仮説を立てることしかできません。

もし新しい観測が現在の理論と矛盾したら、理論を修正します。たとえそれが「誰も本当のところを知らない」ようなダークエネルギーを使うことになったとしてもです。

最近のジェームズ・ウェッブ宇宙望遠鏡の観測結果により、すでに多くの調整を施されてきた標準ビッグバン宇宙論は、さらなる恣意的な補正なしには救済不可能な状況に陥りました。

ますます多くの宇宙物理学者が、ビッグバン理論には危機があると認め、大幅な見直しを求めています

さらに、このブロガーはこうも書いています:

「創造の物語についてまず言っておくべきことは、それが神が世界を七日でどのように創造されたかについてのものではないということです。」

彼は、おそらく創世記を文字どおりに読まない有名な神学者たち、たとえばN.T.ライトやジョン・ウォルトンのような学者たちの影響を強く受けているようです。

この主張には三つの誤りがあります。

一つ目、それは物語ではなくナラティブ(叙述)です。

二つ目、神は世界を<六日間で>創造し、七日目に休まれたのであって、単純に「七日で」というわけではありません。

三つ目、神は宇宙をどのように創造されたかを私たちに告げられたのです。

それは一日一日が積み重なり、地・水・光、夕と朝、空気に満ちた広がり、陸・植物・光を与える天体、魚・鳥・陸上の動物、そして最後に地とすべての被造物を治める人類が創造されました。

神がどのように創造し、全てを形づくられたかは神の栄光・力・知恵・叡智・主権・愛を示しています

これらすべてが神の「神格」を物語っているのではないでしょうか。

多くの人々は創世記1・2章を他の聖書の65巻と切り離して読んでいます。

彼らは、モーセやイェシュアが創世記1・2章をどのように読んだかを取り上げません。これこそが、人々を間違った解釈へと誘う王道ではありませんか。

なぜなら、創世記の著者も、創造主・救世主であるイェシュアも文字どおりに読んだからです。他の聖書の著者たちも同様です。

なぜそれが重要なのでしょうか?それは神の主権と愛に関わる問題点があるからです。

神は宇宙全体を六秒で創造することもできたでしょう。しかし神は意図的に六日間で創造し、安息日の例を私たちに示されました。 安息日に休むことは十戒の一つでもあります。イェシュアは言われた。「安息日は人のために設けられたのです。……」(マルコ2:27) ここには、神の溢れるばかりの恵みと愛を感じませんか。創造による恩寵も、福音の一部ではないでしょうか。

クリスチャンにとって、堕落した世に生きる現代神学者やごく一部の教父ではなく、モーセとイェシュアに頼るほうがより合理的で理にかなっているのではありませんか

創世記1・2章は真実です。

モーセとイェシュアの創造論もまた真実です。