学術界における二つの眼差し
歴史批評学的見解
両者は本質的に異なる文学ジャンルだと考えます。1〜11章はメソポタミアの創世神話をヘブライ語に昇華させた「神話的形式による神学的歴史」であり、12〜50章は歴史的な核を持ちつつ民間伝承で潤色された物語である、という見方です。
保守的・統一的見解
明確な区分を設けず、全巻が一つの意図された歴史的叙述だと考えます。その最大の根拠が、全編に十一回現れる「トレドット」という定型句です。
創世記は、自分の区切り方を自分で語っている
ここからが本稿の中心です。区切りをどこに置くべきか――この問いに、創世記自身が答えを用意しています。
ヘブライ語のתּוֹלְדוֹת(トレドット/「〜の系図・歴史」)という定型句は、創世記に十一回現れます1。
2:4 / 5:1 / 6:9 / 10:1 / 11:10 / 11:27 / 25:12 / 25:19 / 36:1 / 36:9 / 37:2
数えてみてください。六回が1〜11章に、五回が12〜50章にあります。同じ一つの定型句が、断絶があるとされる場所をまたいで、全巻を貫いているのです。
しかし、決定的なのは回数ではありません。十一回のうちの、六番目です。
創世記11章27節――「これはテラの系図(トレドット)である」。この一句で始まるブロックは、どこまで続くでしょうか。次のトレドットが現れる25章12節の直前、すなわち25章11節までです。
つまり、アブラハムの召命も、契約も、イサクの誕生も、そのすべてがこの一つのブロックの内側にあります。
では、学者たちが「ジャンルの断絶」を置きたがる創世記12章1節は、どこにあるのでしょうか。
ブロックの切れ目ではありません。ブロックの真ん中です。
これは、別稿で述べたユダヤ的なブロックの読み方と、まったく同じ原理です。ヘブライ語聖書の巻物では、ペー(פ)とサメフ(ס)が区切りを示します。区切りは読者が決めるのではなく、本文が示すのです。トレドットもそれと同じ働きをしています。
エヌマ・エリシュとの「類似」は、どれほどのものか
第三の違いに戻りましょう。「深淵」を意味するヘブライ語תְּהוֹם(テホーム)が、バビロニアの女神ティアマトから借用されたものだ――こう説明されることがあります。よく聞く話です。
しかし、言語学的にはどうでしょうか。
テホームとティアマトは、片方が片方から借りたのではありません。両者はともに「海」を意味する共通のセム語根 t-h-m に由来する同根語です2。英語の brother とドイツ語の Bruder の関係と同じことです。ドイツ語から英語が借りたわけではありません。
さらに大切な点があります。ヘブライ語のテホームは、聖書の中でただの一度も人格化されていません。神々でも怪物でもなく、ただの水です。エヌマ・エリシュでは、マルドゥクが女神ティアマトの体を切り裂いて天と地を造ります。創世記では、神が語られると水が分かれます。戦いはありません。相手すらいません。
語彙が似ていることと、内容が同じであることは、まったく別の問題ではありませんか。
序文で申し上げたとおりです。これらの異教の神話は創世記より先に書かれたものではありますが、それは創造についての歪められた物語でした。真の歴史が歪められることをご存じだった全知の神は、ご自分の言葉を後世に伝える担い手として、イスラエルを選ばれたのです。
「ジャンル分け」という習慣は、どこから来たのか
もう一歩、根に下りてみましょう。そもそも、なぜ私たちは古代の書物をジャンルに分類したくなるのでしょうか。
別稿「神学の起源」で見たとおり、聖書を体系的に分類し、区分し、整理する作法は、ギリシャ由来のものです。アリストテレスの弁証法が中世の大学に入り、ヘブライ語の書物を読む方法になりました。「Aか、非Aか」と問う論理です。
ユダヤ人の思考は、そのようには問いません。ブロックとブロックをどう結ぶかを探します。文書仮説もまた、この同じ癖から生まれました。神の名前が違う、文体が違う、ならば資料が違うに違いない――と。
今回の「ジャンルの断絶」も、同じ形をしています。時間の尺度が違う、地理の精度が違う、語り口が違う、ならば種類が違うに違いない。
しかし、一冊の本の中で語り口が変わることに、何の不思議があるでしょうか。別稿でも申し上げましたが、同じ著者が法典と物語と詩を書けば、文体は当然変わります。宇宙の創造を語る筆致と、一人の老人が息子を得る場面の筆致が同じであったなら、そのほうがよほど不自然ではありませんか。
👶 十歳の子供の読み方
ここで、はじめの子供に戻りましょう。
その子は、エヌマ・エリシュを読んだことがありません。文学ジャンルの分類も知りません。考古学的検証という概念も持っていません。持っているのは、本文だけです。
そして、その子は正しく読みます。神が世界を造り、人が堕落し、洪水が来て、アブラハムが召される――継ぎ目のない一本の物語として。
古代の最初の聴衆も、そのように聞きました。彼らもまた、ジャンル論を持っていなかったからです。
はっきり言いましょう。1〜11章と12〜50章のジャンルの区別は、学術的な構築物です。本文から生まれたものではなく、読者が外から持ち込んだものです。そして、この区別が生じるのは、次の三つの場合に限られます。
- 創世記1〜11章を、エヌマ・エリシュやアトラハシス叙事詩と並べて比較するとき
- 現代の文学ジャンルの分類を、古代の文書に当てはめるとき
- 古代の読者が決して問わなかった検証の問いを、こちらから持ち込むとき
いずれも、本文の外側から来る操作です。本文の内側からは、一つも出てきません。
十歳の子供の素直な読書感覚は、一世紀にわたる批評的学術研究よりも、古代の読書体験に近いのです。
まとめの比較
| 特徴 | 創世記 1〜11章 | 創世記 12〜50章 |
|---|---|---|
| 範囲 | 宇宙的・普遍的な起源 | 族長の家族史 |
| 時間の幅 | 千数百年(膨大) | 約四世代(限定的) |
| 地理 | 特定しにくい | 具体的・検証可能 |
| 古代近東との語彙的類似 | あると言われる(ただし同根語) | 少ない |
| 異教神話との内容的一致 | なし | なし |
| トレドット構造 | 六回 | 五回(連続) |
| 本文が示す区切り | 11章と12章の間には、存在しない | |
なぜ、これが重要なのか
ジャンルの議論など、学者に任せておけばよい――そう思われるかもしれません。しかし、そうはいきません。何が懸かっているかを見てみましょう。
もし1〜11章が「別の種類の真理の主張」であるなら、そこに登場するアダムも「別の種類の人物」になります。象徴です。比喩です。実在した誰かではありません。
ところが、パウロはそう読みませんでした。ローマ5章12〜19節も、コリント人への手紙第一15章21〜22節も、アダムが実在の人物であることの上に組み立てられています。一人の人によって罪が世界に入り、一人の人によって義が来る――この対応は、両方が実在の人物でなければ成り立ちません。
そしてイェシュア(יֵשׁוּעַ)ご自身は、どう読まれたでしょうか。
結婚と離婚という、きわめて現実的な問題を論じる場面で、イェシュア(יֵשׁוּעַ)は創世記1章と2章を引用されました。象徴としてではありません。実際に起こったこととしてです。
創世記1〜11章を歴史から切り離すなら、なぜ人間が救いを必要とするのかという説明も、同時に切り離されます。別稿で詳しく述べたとおりです。
Notes
- トレドット(תּוֹלְדוֹת)の出現箇所は、創世記 2:4、5:1、6:9、10:1、11:10、11:27、25:12、25:19、36:1、36:9、37:2 の十一箇所。ただし 36:1 と 36:9 は同一のブロックを指すため、区切りとしては十とする数え方もある。5:1 のみ「これはアダムの系図の書である」という異なる形をとる。 ↩
- תְּהוֹם(テホーム)とアッカド語の tiāmtum/ティアマトは、ともに「海」を意味する原セム語 *tihām- に由来する同根語であり、借用関係にはない。Alexander Heidel, The Babylonian Genesis, 2nd ed., University of Chicago Press, 1951 を参照。 ↩